〔ねりえカフェ〕昔のホークス | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

 

ねりえの語り場「ねりえカフェ」へようこそ!!(^∇^)

 

「ねりえカフェ」とは、

ねりえが興味のあることを語るためのコーナーです。

実在のお店ではありません(^^ゞ

 

 

今日のテーマは

 

昔のホークス

 

ですo(^▽^)o

 

 

プロ野球、パ・リーグ。

福岡ソフトバンクホークスは、前半独走しておきながら、

後半に失速し、まさかの逆転で2位に終わりました。

  

ねりえは元々福岡県北九州市の出身。

南海ホークスが福岡ダイエーホークスとなり、

本拠地を大阪から福岡に移した平成元年(1989年)以降、

ずっとホークスを応援しています。

 

 

さて、そのホークス、

平成10年(1998年)以降の19年間に限って言えば、

19年中日本一5回、リーグ優勝7回、Aクラス17回、ということで、

「常勝球団」の名前をほしいままにしている訳ですが、

それまでは南海時代から20年連続のBクラスで、

「弱小球団」と言われ続けてきました。

 

 

特に平成2年(1990年)はひどかったですね。

 

田淵政権1年目として期待されたのに、

ドラフト会議で強行指名した元木に入団を拒否され、

シーズンが始まってみれば投手陣は崩壊状態。

投手陣のほとんどが防御率4点台を上回り、

チーム最多勝は村田と山内孝の7勝。

その村田はエースとして7勝しならがも、15敗を喫しました。

 

打線も打線で、規定打席に到達した選手のうち、

最高打率は佐々木の2割7分3厘。

チーム最多本塁打の岸川は、20本の本塁打を放ったものの、

打率は2割5分台にとどまりました。

 

結局、首位から40ゲーム差のダントツ最下位。

オールスターゲームに出場できたのも山本ただ1人でした。

 

 

それが、これだけの球団になったのも、

常勝球団への足がかりを作った根本監督、

生卵を投げつけられながらもチーム育成に心血を注いだ王監督、

自らチームの手本となり、選手を引っ張っていった

秋山や工藤ら移籍組の選手、

また、騒動続きの球団を引き取り、球団を心から愛してくださっている

孫正義オーナーのご尽力の賜物だと思っております(肩書は当時)。

 

 

が、ねりえはどうしても弱かった頃の印象が強くて、

今の「今日も勝ったかな~」というイメージよりも、

昔の「今日は勝ったかな~」のイメージの方が

心の中にしっくり来るものがあるというのも、正直なところです。

 

 

昔に比べて今は選手も球場も洗練されましたね。

球団発足時は本拠地は平和台球場でしたし、

北九州市民球場での試合も多かったので、

ねりえもよく北九州市民球場に試合を観に行っていました。

 

洗練された球場ができて、また、選手自体も最近は洗練されてきて、

昔のような野武士ぶりが失われてきた気がするのは、

ねりえが年を取ったせいでしょうか?(;^_^A

 

正直に申し上げて、今は昔ほどホークス熱もなく

(というか、プロ野球自体への関心が薄れ)、

選手もよく知らなくなってしまいました(´・ω・`)

 

 

先日、元ホークスの若井基安氏が

防府市の高川学園野球部の監督に就任したことを知りました。

元ホークスの選手としては、大越基氏が下関市で

早鞆高校野球部の監督を務められ、

既に監督として甲子園出場も果たしています。

 

北九州市民球場でのライトスタンド、

「ライトを守る若井の背中をよく見ていたなあ」と懐かしく感じ、

今日語らせていただきましたo(^▽^)o