一昨日 ご紹介した豊永長吉の墓のそばにある宝篋印塔で、
大内義長の墓と言われているものです。
大内氏は守護大名、また、戦国大名として名を馳せ、
西国の雄として知られました。
しかし、1551年、当主・義隆が、
重臣・陶隆房(晴賢)の謀反に遭い、自害。
隆房が、自らの傀儡とするために擁立した後継者が、
義隆の甥で、大友宗麟の弟である大友晴英、
後の大内義長でした。
しかし、1555年、厳島の戦いで、
晴賢が毛利元就の前に敗北し、自害。
家臣団が崩壊する中、義長も毛利勢に追い詰められ、
1557年、功山寺(当時・長福寺)にて自害。
ここに、大内氏は滅亡したのです。
大内氏の滅亡後、功山寺自身も一旦衰退します。
長府藩初段藩主・毛利秀元により寺が再興されるのは、
義長の死から45年後のことでした。
場所はこちら です。
※功山寺墓地入口をお示ししています。
下関市立長府博物館の横にも説明板が設置されています。