明日の大河ドラマ「花燃ゆ」では、
いよいよ久坂玄瑞が下関の亀山砲台から
攘夷戦の第1発目を放ちます。
というわけで、「花燃ゆ」にちなんで、
今日は高杉晋作像をご紹介します(^∇^)
ねりえが知っているだけで
市内に7体(レリーフ込み)ある高杉晋作像。
その第4弾、4番バッターです。
ご紹介するのは、4番バッターにふさわしい、
日和山の高杉晋作像です。
下関を代表する像の1つですねo(^▽^)o
公園の木の生い茂り方にもよりますが、
遠方からも見ることができます(^∇^)
像の高さは4.2mで、備前焼。
「世界一の陶像」と言われていますv(^-^)v
5体のパーツに分けて製作されたそうです。
関門海峡をにらみつけるその顔は、
この像から下ったところにある夢見る晋作像 とは
全く違う表情をしていますが、それもそのはずで、
この晋作は、長州を離れ
平尾山荘の野村望東尼の元に潜伏していた晋作が、
俗論派打倒の決意の元、
山荘を出発する時の姿だと言われています。
望東尼が徹夜をして、手縫いで作った衣服を身につけています。
台座に書かれた「高杉晋作像」の字は、毛利元昭の書です。
毛利元昭は毛利宗家第29代当主。
防府の毛利邸を建設した人です。
書が得意で、多くの石碑の揮毫をしています。
ちなみに、「花燃ゆ」の主人公である杉文は、
元昭の養育係を務めていますので、
元昭もそのうちドラマに登場することに
なろうかと思われます(^∇^)
元々この場所には、晋作の“銅像”が建っていました。
昭和11年(1936年)4月14日、
晋作の70回忌に合わせて建立されたもので、
今よりもちょっと大きい、4.8mの像だったそうです。
高村光雲門下の関野聖雲の作品でした。
それが、戦時中に金属供出されてしまいます。
供出の時期については、
昭和18年(1943年)と記している資料が多いようですが、
昭和17年(1942年)と記している資料もあります。
その後、昭和31年(1956年)4月14日、
晋作の90回忌に今の像が再建されたわけですが、
その際、同様のことが起きないよう、
金属ではなく備前焼で再建されました。
作者は備前焼の巨匠・伊勢崎陽山です。
台座の裏面です。
昭和11年建立時の建立者名簿の上に、
昭和31年建立時の碑文が埋め込まれています。
晋作像の左脇に、像の碑文が書かれた碑があります。
撰文は陸軍中将・藤田鴻輔です。
藤田鴻輔は下関要塞司令官を務めたことのある軍人ですが、
晋作とは親族関係にあり、
幕末の長州が生んだ偉人の顕彰にも尽力しています。
書家としても知られています(「油溪」と号していました。)。
ただし、この碑の揮毫は鴻輔ではなく、
山口町長などを務めた文化人・作間久吉(鴻東)が
手がけています。
さて、ここまでいろいろとご説明してまいりましたが、
1つ分からないことがありまして……。
(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)
……誰!?∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
台座の中に隠れるように、仏様(?)がいらっしゃるのです。
この仏様(?)がどなたで、
何の目的でここにいらっしゃるのかが分からないのです。
どなたか教えてください!!(ノДT)
場所はこちら です。
晋作像から下り、少し唐戸側に行ったところに、
玄瑞が駐屯した光明寺もありますo(^-^)o