ジュース(私の昭和13) | MIYUKI&KAMIOのつぶやきと陶芸のブログ

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陶芸家の夫である尾形香三夫は、2022年に他界しましたが、タイトルをそのままにして、今後も夫婦の思い出を交えて、書いていきたいと思います。

 

MIYUKIです。

 
前回の「私の昭和」では、夕張市のおかむらデパートに唯一あった、ジュースの自動販売機でのハプニングを書きましたが、今回もジュースの話題です。
 
かなり前のブログに、私が子供の頃は、バナナがとても高価な果物で、運動会の時にしか食べられないものだった事を書きましたが、ジュースのような類いの飲み物も同様で、手軽に飲めるようなものではありませんでした。
 
当時のジュースは、粉末ジュースでした。
 
粉末ジュース??って思われた方も沢山いると思います。
 
 
それは、オレンジの粉末が袋に入っていて、スプーンでコップに入れて水で薄めて飲む、それが当時のジュースでした。
 
そんなまがいひんのようなジュースでも、それすら飲めなかった頃に比べたら、夢のような飲み物でした。
 
最初はオレンジ味しかなかったと思いますが、その後、グレープ味、イチゴ味が出てきました。
 
どこの家も貧しかった当時、多分「ひとさじ以上は入れてはいけない」という暗黙のルールがあったはずです。
 
ひとめを避けて多めに入れたり、指で粉を舐めたりしたり、またまた、質より量とばかりに、水を多く入れて、うす~いジュースを作ったりと。
 
隣近所の子供たちも、貧しさのせいか、食べ物を見せびらかして食べるようなことが多々ありました。
 
私はこんな美味しいものを食べているんだよ~とばかりに。
 
こんな事がありました。
 
はす向かいの家とは、窓を開けたら話をすることも出来るような距離。
 
ある日、わざわざ窓を開けて、当時としてはかなり珍しいケーキを、私たち姉妹がジ~っと見ている前でパクリパクリ・・・
 
向こうの母親は、「座って食べなさい」、こちらの母親は「見るんじゃない」
 
でも、パクリパクリ・・ジ~・・は、最後の一口まで続きました。
 
 
私が小学生の頃、第1回目の東京オリンピックがありました。
 
まさに日本は、経済大国まっしぐらの時代で、それにともない、私たちの食環境も大きな転換をしていった時代でもありました。
 
インスタンラーメンの出現、コーラの普及・・・今まで口にする事が出来なかったものが、少しずつ身の回りに現れ始めました。
 
 
 
情報が満載の現代、お金さえあればインターネットや全国くまなく配達するネットワークで、どこにいても、どこで作られたものでも、お取り寄せが当たり前になりましたが、あの時はいくらお金があっても、手に入れること自体が難しかったのですから、諦めるしかありませんでした。
 
地方にに住んでいたら諦めるしかない・・・
 
ある意味、なんとなく平等だったのかもしれませんね・・・
 
「ポパイ」を見た後、必ず不二家のダブルチョコレートやパラソルチョコレートを両手に持って食べるコマーシャル、不二家のレストランでプリンアラモードを食べるコマーシャルを見て、なんど生唾を飲み込んだか・・・・
 
それらのものが、時間を掛けながらも、お店で売られるようになったり、食べられるようになった時の嬉しさは、格別なものがありました。
 
幸か不幸か、特別な料理とか食べ物が無くなってしまった今、当時のあの感覚が懐かしくなりました。