編み機(私の昭和10) | MIYUKI&KAMIOのつぶやきと陶芸のブログ

MIYUKI&KAMIOのつぶやきと陶芸のブログ

陶芸家の夫である尾形香三夫は、2022年に他界しましたが、タイトルをそのままにして、今後も夫婦の思い出を交えて、書いていきたいと思います。

MIYUKIです。
 
前回は手編みのセーターの(悲しい)話を書きましたが、今回は母親の編み機の思出話です。

昭和中期生まれの私の子供の頃は、既製品の服を買うことはめったになく、大抵の物は親の手作りのものでした。

今でこそ「手作り」という響きは、手間暇かけた特別なものの感じですが、あの頃は何でもかんでも売っているわけではなく、多くのものを手作りをしなくてはいけない時代、究極のDIY時代でした。

私の母親は、内職も兼ねて編み機で色々なものを作っていました。

やり始めの頃、母親は幼い私たちを連れて、近所に編みものを教わりに行っていました。
 
そこでは数名のお母さんたちが、ジャッジャと賑やかな音をたてながら、編み機の練習していて、時折冗談を言い合って、ケラケラと大笑い・・この辺の雰囲気は今も昔も変わりませんね~

ご存知のように編み物は、ほどけば何度でも編み直しがきき、これは最高のリサイクル。この時代は、あえてリサイクルを意識しなくても、そんなシステムの中で暮らしていました。
 
という事で、そのほどく作業は私達子供たちの仕事でした。

最初は毛糸を引っ張ると面白いようにセーターがほどけて、どれだけ早くほどけるか遊び感覚でしたが、それも最初のうちで、その内飽きてきたものです。

ほどいた毛糸は当然買ってきた時のように真っ直ぐではなく、くねくねと曲がった編み癖がついているので、そのままでは使えません。家では、ストーブの上にかけてあるヤカンの蓋を少し開けて、そこにくねくねした毛糸を通して湯気をあてて、真っ直ぐに直していました。

毛糸の引っ張りかたが早すぎると、真っ直ぐにならないので、それなりに様子を見ながらの作業でした。
 
束になっている毛糸を、両腕にひっかけて、もう一人の人が毛糸の玉を作っていく作業もあり、毛糸玉を作っていくスピードに合わせて、両腕を回転させていくのですが、長くやっていると腕がだるくなり、早く毛糸が無くならないかと思ったものです。

母親も編み物の腕を上げ、近所の人からセーターなどを頼まれるようになると、私たちの仕事も増え、夜になるとせっせと手伝っていました。
 
セーターやベスト(昔はチョッキと言ってましたが・・)を作ってくれるのはありがたかったのですが、母親はなにを血迷ったか、ズボンまで毛糸で作り始めました。
 
想像してみてください。
 
毛糸のズボン・・・毛糸のズボンですよ!
 
どう見ても年寄りの股引です・・・
 
折角苦労して母が作ったものだから、履かないわけにはいきません。
 
最初こそ、ピシッとしていてまだ良かったのですが、ちょっと時間が経つとヨレ~となってしまい、膝はでる、足首はのびる・・なんとも惨めは毛糸のズボンになってしまいます。
 
想像してみて下さい・・
 
そんな毛糸のズボンを履かされた私に付いたあだ名は・・・
 
もんぺ!
 
もんぺですよ!
 
小学校3~4年生くらいの話ですが、恥じらいも分かりかけた乙女・・に付いたあだ名ですよ。
 
なんとも惨め極まりないあだ名ではないですか!
 
 
こんな私ですが、今となっては
 
もんぺも楽でいいかも・・なんて言ってる年代に・・・
 
あっちゃ~( ̄_ ̄ i)