【Roy】キラキラ☆プリキュアアラモード「プリキュアにおける“死”について」第7話感想 | 現在、更新を停止しております。

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キラキラ☆プリキュアアラモード第6話感想


本編放送日:2017/03/19
本編視聴日:2017/03/21

記事記入日:2017/03/21
記事投稿日:2017/03/22


プリアラ放送から5話までは、記事を書いた日と放送日が一致していましたが
18~20日の間まで家に戻ることがなかったため、感想記事の投稿が遅れました。

今後もこういったことがあると思いますが、がんばって感想記事を投稿していきますので
応援よろしくお願いします!



第6話感想

今回の放送では、プリアラの5人がはじめて一同に会しました。
そのなかでプリアラ第1話冒頭で伏せられていた噴火事件の詳細と長老とペコリンの
その当時までの動向が語られました。
「あの爆発で わしは実体のない体になってしまったジャバ」

その件で行方不明となっている友人らのことを思うペコリンが落ち込み、それを
いちかちゃんの「きらっとひらめいた」で解決するお話でした。


今回の感想記事では、上記画像の長老の台詞
「あの爆発で わしは実体のない体になってしまったジャバ」
について考えていきたいと思います。

つまりは“死”について…

今回は暗めの話を書いていきます。




〈“死”の定義〉

まずお互い確かめておきたいのは、死の定義です。

以下、Wikipediaより引用

どのような状態になったことを「死」とするのかということについては、
各地域の文化的伝統、ひとりひとりの心情、医療、法制度、倫理的観点などが
相互に対立したり影響しあったりしており、複雑な様相を呈している。
領域ごとに異なった見解があり、またひとつの領域でも様々な見解が対立している。
たとえば今 仮に、医学的な見解ひとつに着目してみた場合でも、そこには様々な見解がありうる。

養老 孟司(ようろう たけし)は次のように指摘した。

生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。
そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。
しかし、この定義は非常に難しいのです。
というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。
嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない。

息が止まること・医師の恣意的な判断・死の三兆候などを私たちは死ととらえる。



このことから、わたしたちの死の定義は曖昧にされています。
「どこからが死となるのか」は線引きがあるのでしょうが、文化によってばらばらなのが現状なのです。

では、創作における生と死の線引きってなんなんでしょうね?





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〈創作における生と死の線引きとプリキュアにおける死〉

わたしたちの生と死の線引きが曖昧なのですから、創作においても同じです。
が、創作の場合は現実と違って死の曖昧さの振り幅が広いのは言うまでもないはず。
ですから作品によって“死”の定義は点でばらばらです。

いや、創作における生と死の線引きは現実より曖昧でいいんです。
だからこそ創作では生を悲しく、死を明るくできる場合もあるのですから。


プリキュアにおける生と死の線引きも曖昧ですが、
そもそもプリキュアには生は顕著に描かれるのに対して、死は描かれることが少ない。
当たり前ですけど。

この画像はハートキャッチプリキュアの登場人物ダークプリキュアの最期です。
映画を除いて、本編でプリキュアと名の付いた人物がはじめて“死んだ”
(であろう)重要なシーンです。
ちなみにハートキャッチプリキュアでは、ダークプリキュアの姉にあたるキュアムーンライトの
パートナー妖精であるコロン
キュアムーンライトの父であるサバーク博士が亡くなっています。

ただし、彼女は普通の人間とは違った方法で生まれ育ったので、ある意味で怪物・怪人の類
としても認知できるため、彼女の死は怪物・怪人の死としてとらえることができました。
本編を見ている子どもたちへの配慮ですね。
それでも子どもたちが創作を通して死を経験する良い機会でした。オブラートに包んで薬を飲むみたいに。

こどもたちも日常生活でペットや周りの人の死と関わることもあると思いますが、
それでもプリキュアを見ている子どもたちのなかで死と関わる子とそうでない子の比率は
そうでない子の方が多いのではないのでしょうか。
そんな子どもたちにプリキュアはどうやって死を伝えてきた・伝えていくのか。


ダークプリキュアの死は怪物・怪人の死=物語のカタルシス の側面もあった一方で、
妹の死という側面もあったため、視聴者側は「死ぬことは悲しいこと」と受け取ることもできます。

「あの爆発で わしは実体のない体になってしまったジャバ」
やっと話が戻ってきました。ここで長老。
長老はそもそも本編で生きているか死んでいるかすら曖昧になっています。
でもお化けっぽいから死んでるのかな??
ある意味死ぬことをポジティブに捉えて、「死ぬという概念はないんだよ!」と受け取ることもできます。
長老の場合は生と死の線引きが曖昧すぎて逆に“死”がコミュカルに扱われています。

このように、ダークプリキュアと長老では、死の伝え方の方向性が全く違うことが分かります。





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プリキュアの30分前の番組でも同じような例がありますよ笑
これは分かる人だけ分かってください(笑)

プリアラ第7話の放送と同日に死んだ(であろう)社長こと檀黎斗(だんくろと)
ヒーローは一度死んで蘇る...んだけど
劇中ではコミュカルなお化け仮面ライダーゴーストこと天空時タケル

壇黎斗はダークプリキュア、タケルは長老に立場が似ています。

まぁ、壇黎斗社長はその存在そのものがコミュカルだったので、
てかそもそもゾンビだったので“死”のとらえ方もコミュカルな要素もあったり(笑)









このことから、他の作品を見ても生と死の線引きが曖昧で、それこそが
生きること・死ぬことがどういうものなのかの伝え方の多様性なのではないでしょうか。

死を重く受け止めすぎると身の回りの人の死を境に立ち直れなかったり
死を恐れて何も行動が出来なくなってしまう。
死を軽く受け止めすぎると身の回りの人の死を安易に捉えてしまったり
自分の命や他者の命を顧みない行動を取ってしまう。


だから、
死を重く受け止めすぎている人には、その肩をほぐす役割が
死を軽く受け止めすぎている人には、その肩に警策の役割が
物語に“死”というシチュエーションが多い理由なのかもしれません。

(ちなみ警策とは座禅の時叩かれること)




ちなみに、死というトピックを今回選んだのは、プリキュアの放送日に
Royが高校の友人と死について話し、そこでの話の結論が上記赤字の部分と
Royと友人の関係が、プリキュアを見ている大半の子どもたちとプリキュアの物語との関係に
似通っていたためです。


プリキュアを見ている子どもたちの大半の子と同じように、
実はRoyは今まで親族や友人、近所の人の死に立ち会ったことがない人間なんです。
ハタチを超えても、まだ死の体験については、プリキュアを見ている子どもの大半と変わらないんです。

一方その友達は既に近しい人の死を体験している人間。最近祖父が亡くなったそうです。
彼はこう言っていました。

「人の死体を見た時、まるで今から動くんじゃないかと錯覚してしまった。」

だから人の死の定義は曖昧なんじゃないかな、でも見たことのないRoyには分からない。

「俺の親が泣いている姿を見ると、俺だって思うところがある。」
Royは死との関わりが薄いですが、それでも少しはその気持ちを分かることはできる。

こんなことを言っていました。
彼の言葉はあえて書き起こして残しておく意味があるものだと思ったので、ここに記しておきます。
いずれRoyも近しい人の死を経験し、自らも死ぬ。
今回はこれから訪れるその機会までに触れておくべきことの一部に出会うことが出来ました。
プリキュアと友人に感謝です。


てか、これ感想じゃなくね?





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〈終わりに〉


さて、いかがだったでしょうか。
Royも大分気分がどんよりしています。

よし、ここは7話エンディングで流れた「映画プリキュアドリームスターズ」のワンシーン
いちかちゃんとさくらちゃんの「レッツラ・クッキン」を見て口直しです!!

癒されるぅ(笑)
あ、でもこのシーンでいちかちゃんがさくらちゃんにあーんして食べさせたのは
「桜の塩漬け」だからしょっぱい! 口直しにならんかったか...(笑)

それではまた次回。来週の放送が楽しみです!