死して屍拾うもの無し | 瞼の裏にネルチンスクの朝焼けを

瞼の裏にネルチンスクの朝焼けを

どうでもいいことを、それっぽく文章に

いたるところに危険は身を潜めている。少なくとも、一つの駅につき必ず一つはいる。駅によっちゃ北口に一つ、南口に一つといった具合に通り行く人々を悉く喰ってやろうと、逃げ場を失わせて貪欲にその口を広げて待ち構えている。




そう、奴らの名はスピード写真。




普段印象に残りなどしないのだが、奴らは必ず駅にいる(神奈川県内・筆者調べ)。今や公衆電話よりもその生息数を伸ばしているのではないだろうか。「あ、証明写真撮らなきゃ」と急に思い立っても駅に行けば大丈夫。頼みもしないのに、スピード写真は駅で人々を喰らわんと目を光らせているのだから。







その日、僕はパスポートの申請のために日本大通の駅を降りた。地下鉄の長いエスカレーターを上がり、改札を出たところで、申請書類に添付する写真の用意を失念していた。今回申請するそれは10年のつもりだったので、できればきちんとした写真を撮っておきたいような気もしたが、出発までそう時間が悠々とあるわけでもないので、仕方なしに駅のスピード写真を利用しようと思い立った。ふらりふらりと出口へ向い歩いていると、通路の突き当たりに奴はいた。




平日のビジネス街。スーツに身を包んだ人々が颯爽と歩く。その流れを遮るように柄シャツとビーサンの僕が立ち止まり、奴の体を観察する。料金は幾らだろうか・・・と確認している間にも、そこを行く人々の視線と声なき声が聞こえてくる。




「あ、こいつ証明写真撮るんだ」




ダメだ。恥ずかしい。しかも場所柄、きっと勘の良い人ならこう考える。





「あ、こいつパスポート用の証明写真撮るんだ」




ダメだ。もうパスポートなんて取りたくない。海外なんて行きたくない。

分かっている、そんなのは僕の自意識過剰なのだと。被害妄想なのだと。けれど、僕なら絶対そう考える。




「あ、こいつパスポート用の証明写真撮るんだ」と。




そんな見透かされ方は嫌だ。あの狭い空間で写真を撮る以外することないだろう。そんなの簡単に見透かされる。考えても見て欲しい。通り魔が襲ってきて、突然カーテンを開けられる。その時自分はキメ顔である。そんな恥辱があってたまるか。キメ顔のまま刺されてたまるか。ああ、スピード写真は嫌だ。




思えばこれは男子便所で個室に入るときの気恥ずかしさに似ている。女性には分からないかもしれないが、これが嫌でたまらない。うんこ以外することがないのだから。逆にうんこ以外で何かすることがあるとしたら、それはそれで問題である。




特に小学生の時分は、「からかわれる」という恐怖さえ伴うのだ。今なら何が悪いと開き直れもするが、小学生時代のうんこをするという行為は常に命がけである。うんこをしたことがバレでもしたら向こう1ヶ月は「うんこマン」と呼ばれることだろう。どうでもいいことだが、覚えている限り僕が小学生時代に校舎内でうんこをした記憶は2回しかない。それ以外は何が何でも家まで我慢を通した。




スピード写真と男子便所の共通点は、その個別性と秘匿性、そして目的の限定性という部分にこそあると思われる。しかしながらその目的の限定性故に、傍から見るものにその行為を容易に想像させてしまうのだ。そうすることで本来担保されるべき秘匿性が形骸化してしまう。そこに恥ずかしさを感じられずにはいられない。




耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで撮影を行う。最近のスピード写真も中々に進化しているようで、通常の撮影モードと美肌に写るモードとがあり、そこは迷わず美肌モードを選択。何がどう違うのかはよくわからないが、なんとなく肌が白く写っているような気がする。




ここでは美肌が大事なのではない。スピード写真から出てきた僕を見て、「あ、こいつパスポート用の証明写真撮ったんだ」と人は思っても、まさか「あ、こいつパスポート用の証明写真を美肌モードで撮ったんだ」とは誰も思うまい。そこが重要なのだ。してやったりだ。





その後パスポートセンターに向かい、申請を行う。最後に本人確認ということで書類と写真、運転免許書などがチェックされる。スピード写真で撮った証明写真が、うまく切れていなかったようで受付の淑女に切っていただく。切り終わって写真を添付しようとしたその時、受付の淑女が申し訳なさそうに言う。





『あの、この写真、妙に白く写ってますけど、このままでよろしいですか?一応向こう10年間使うものなので・・・』





受付の淑女はこう思っただろう。
















「あ、こいつパスポート用の証明写真を美肌モードで撮ったんだ」