その日も、遠藤家は平和だった。
昨日、仕事から帰ってくるとレンジの上にビスコがこれ見よがしに置かれていた。
それも保存缶であり、未開封ならば5年間もつという代物らしい。
これだ。
誰がこんなものを、と考えをしたのも一瞬、合鍵を持つ者は親以外いない。
折しもその日はバレンタインデーであり、まさかチョコを一つももらえないであろう息子の気が触れないよう案じて用意してくれたものではあるまい。もしそうであるなら随分と自分の息子を見くびってくれたものである。もうそんなことを心配されるような年でもない。恥ずかしい限りである。
ま、彼女にすらここ3年くらいまともに千代子なんぞいただいておりませんが。
いや、今はそんなことどうだっていい。
このビスコは恐らく災害対策意識が希薄な出来の悪い息子を心配して、母親が何かのついでに持ってきてくれたのだろう。
社会に出て4年経とうとしているが、こうも心配してくれているのはありがたくもあり、それがバレンタインチョコでなかろうと、中途半端に一人立ちができていないことには変わりなく、やはりどこか恥ずかしい。
もし何か起こった時には、このビスコを泣きながらに摂取して生き永らえることにしよう。「九死に一生スペシャル」にでも取り上げられることがあったとしたら、母が残してくれたビスコによって今こうして生きていられると、涙ながらに語ってやろう。
母親の愛は海より深い。
その次の日、別の用事もあって実家に電話をする。すなわち先ほどの出来事である。
用事も早々にビスコの話に移る。
母親「あー、あれね。実はお父さんが買ったのよ。5年もつから乾パンより良いだろうって。」
僕 「へー、そうなんだ。確かに乾パンよりはビスコの方がいいね。」
母親「お父さんがネットで注文したんだけど、私もちょうどテレビでそのビスコが特集されてたからちょうど良かったのよ。最初お父さんは勝手に注文して怒られると思ったらしいけど。」
僕 「あはは」
母親「でもね、荷物が届いてビックリしたわよ。とんでもなく大きな段ボールで届くから。」
僕 「あ、そうなの?」
母親「段ボールを見たらビスコって書いてあるから間違いはないと思ったんだけど、中開けたら50缶も入ってたのよ!」
僕 「ごじゅ…」
母親「さすがに怒ったわよ。20,000円くらいしたんだから!」
僕 「にま…」
母親「ということであんた、さっさとそれ食べちゃってね。無くなる頃にまた持って行くから。」
僕 「いや、そんなに食えな…」
母親「なんなら職場の分も持っていくから必要な数をあとで教えてね!」
僕 「いや、いらな…」
母親「じゃね☆」
ツーツーツー
一人暮らしの息子を案じた、海よりも深い愛を持った理想の母親像はいとも簡単に崩れた。「九死に一生スペシャル」に出演することを夢想した時間を返してほしい。
ビスコ。
保存食と言う天命を与えられながら、「頼みすぎた」という父親の失態により、5年の寿命を待つことなく志半ばで遠藤家の人々により、無残にも今、開封されようとしている。こうなればただのビスコである。
さぞ無念なことであろう。心中察するに余りある。
という訳で、現在遠藤家では美須子の里親を募集しております。