平成6年の夏に4科目めの受験が終わり、5科目めの所得税法の勉強もほぼ順調に進む。休職中で無職だったので昼間に学校の授業を受け、授業がない時間は自習室で終日勉強をする。勉強に費やせる時間が働いていたころと比べて格段に多くなったのがうれしかった。これで最後の受験にしたいという思いがだんだん強くなる。

 
求職活動は継続していたのだが、30歳後半のミセスを雇用したいという職場はなかなか見つからない。このまま年末を迎えるのかなと考え始めたころに産休代用で短期間だが経理事務職を探しているという情報が入ってきた。小さなデザイン事務所で、経理だけでなくすべての事務職を一人の女性がこなしていた。面接に訪問したときにはもう臨月が近く、すぐにでも産休に入らないと危ない状態。本来は出産ぎりぎりまで仕事をさせるのは労働法違反なのだが零細企業では守れない事情もあったのだろう。ほとんど即決で採用が決まる。給与は時給制で、10時から4時までの短時間勤務。翌年5月いっぱいまでの臨時。
 
就職が決まったので夜の部のクラスに変更することを昼食グループで報告したら意外な反応が出た。グループの一人O子が、私が受験をやめるのではないかと心配し始める。もともと働きながら勉強していたので、無職だった現状が臨時であって、今後も変わらずに受験は続けるから、と説明したのだけれど、やめないでやめないでと繰り返す。働かない状態で受験をするのがスタンダードになっている人から見れば就職するということは勉強をやめるというのと同じ感覚なのかもしれない、と最初は思ったのだが、実は違っていた。
 
授業のある日には授業開始より早く登校して教室で小一時間問題を解くのが私の習慣になっていた。そして私が問題を解いているときに決まってやってくるのがO子。机のすぐ前に立って私の手元をじっと見ている。凝視している視線を感じると集中しにくくなるのだが、時間を計って始めたものを中断したくないので軽い会釈をするだけで問題を解き続ける。O子はじっと見つめられていても気にならないタイプなので私にとってはそれが問題を解くことの邪魔になっていることを理解していないのかもしれないと思ったこともある。O子の態度の理由はともかく私がなるべく気にしないようにして問題に集中すればいいだけのことだと考えていた。解き終わったら軽く話をすることもあり、あえてO子に邪魔になるからやめてほしいというほどのことでもないと思っていた。そうはっきり言うことで不興を買いたくないという思いはあった。
 
私の就職が決まった後にO子と二人で話す機会があったときには驚いた。「だってN子(私)が問題を解くのを邪魔することができなくなるじゃないの」「私(O子)が邪魔をしていい人がいなくなるじゃないの」と言い出したのだ。つまり、これまでわざと邪魔をしていたのよ宣言。月例試験の成績を見てもO子の成績は私を蹴落とそうなんて考える必要がないくらい優秀で、自分の順位を上げるために私の邪魔をする必要がない。O子は私の勉強の邪魔をすることを楽しんでいたのだった。私が受験をやめてしまうのではないかと心配したのではなく、自分が邪魔をすることでストレス解消していた相手がいなくなるのを心配していたのだ。
 
その心理の中にたぶん私が一般の受験生でなく先生の奥さんだからという思いもあったのかもしれない。私は一般の受験生だったのだけれど、O子に限らず「あなたは先生の奥さんだから成績などで優遇されているでしょ」と言われたこともあり、私に対して学校や講師に対する苦情を言う人はほかにも何人もいたのだから、O子がそう思ったとしても彼女だけが特別ではない(正しくもない)。受験勉強ばかりしているとストレスがたまるのは皆同じ。そのはけ口をどこに求めるかでその人の品性がわかることもある。誰もはけ口になりたい人はいない。「あなたがストレスのはけ口なんだよ」と言われて嬉しい人などどこにもいない。
 
私自身は美人には程遠く、どう見てもかわいげがない。おしゃれでもスタイリッシュでもなくて背も高くないしスタイルも良くない眼鏡ブスだということは自覚している。明るいか暗いかと言われれば暗い方の人間。学校に来ている時間の大部分を勉強に費やしたいし、受験期間はできるだけ短くしたいのであまり周囲の人たちとおしゃべりに興じることがない。昼食を一緒にとる女子グループでも、テレビや芸能やおしゃれ(特にブランド品)の話題になるとついていけない私は異分子だったのだろう。
 
そのうえでガリ勉の成果として学内の試験では比較的上位を維持できている。それまでの税理士受験でも2回の受験で3科目合格済で、その夏の受験でも合格の可能性が高いと講師が言っていた。受験の途中で結婚したY男先生は学校でも人気者で授業の中で我々夫婦は仲良しであるとアピールするようなネタをまき散らしている。羨望というか、妬み嫉みの対象になるにはうってつけの人物だったのだと思う。アンナチュラルの第5話のように「なしてあの子のほうが幸せなの」というとんでもないやっかみで殺されるにはちょうどいい人材なのかも。
 
O子が「私(O子)が邪魔をしていい人がいなくなるじゃないの」と言い出したときにO子と知り合って仲良くなったことを深く後悔した。Y男先生の職場であり私の言動はほかの生徒さんにも伝わることがわかっているのでそれまではあまり文句は言わないようにしていたのだが、我慢できなかった。「私はあなたが勉強の邪魔をしていい相手じゃない」「これまでも邪魔だと思ってはいたけれど言えなかったのは遠慮していたから」「自分が邪魔をしてほしくないんだったら他人の邪魔をするべきではない」など、結構きつく言った。その日以後、O子は私と顔があっても一切口を利かなくなった。私も何も言わなかった。関係を修復したいと思うことが一瞬もないまま私は就職して夜のクラスに移った。
 
このコースが受験校に通学できる最後のコース。もしも合格できなかったら通学できる学校は地域にはない。狭い業界なので複数の受験校の間を受験生が回遊しており、私が受験校の先生の身内であることを隠して通学できる余地がない。本当に最後の受験にするしかない。そう思って、ますますガリ勉に走る私。一方で、臨時とはいえ就職先はとても楽しかった。