その男㊿ | neppu.com

その男㊿

「まず何たべる?」

 

「あれ買いたいんだよね」

 

「とりあえずあそこ行くかな」

 

そういった会話が自然と始まる。

 

帰国間近となると。

 

今回も例外なくそういった会話が繰り広げられた。

 

特に食事中はその会話をしながら、みんなで妄想を膨らます。

 

帰国後にやることという議題の中で、いつもと違う点が

 

 

「隔離生活中」

 

 

という点だ。

 

帰国後は2週間の自主隔離期間がある。

 

自主隔離期間は、人と接しないことを強く要請される。

 

公共交通機関を使ってはいけないなどのルールもある。

 

最終目的地が北海道の「その男」は飛行機を使わなければいけないため、家に帰ることができないのだ。

 

東京のホテルに2週間滞在しなければならない。

 

目的地が陸続きの人は、レンタカーや自宅から車で迎えに来てもらうことができれば、家に帰ることができる。

 

2週間の自主隔離期間だが、ドイツから帰国する人は、政府の指定する宿泊施設に3日間滞在を義務付けられているらしい。

 

コロナの変異株拡大危険地域に、帰国する一週間前ほどに指定されてしまったためだ。

 

やはり、他の選手たちは三日の隔離期間が終わるとすぐに自宅へ戻るようだ。

 

 

2週間のホテル生活はあまりにも長すぎる。

 

何をしようか色々と考えていた「その男」

 

料理を張り切ってやろうか。

 

オンライン英会話もいいな。

 

とことんグダグダ過ごすのも悪くないのかも。

 

通常では絶対にありえない2週間のホテル住まい。

 

自由が効かない2週間だからこそできることは何かないかと考えていたようだ。

 

 

「あっ、いいこと考えたぞ、、、」

 

 

何か閃いたようだ、「その男」は。

 

 

2021年3月6日夜

 

 

思っていたレース前夜とちょっと違ったようだ。

 

50kmの前日の夜のことだ。

 

明日は世界選手権最終日。

 

伝統の50kmがある。

 

「その男」にとって、最も思い入れのある種目がこの50kmだということは以前にも書いた通りだ。

 

翌日のレースのことを考えると不安になり、ソワソワして寝られないのが通例。

 

 

そうなるだろうと思い、色々な対策を取っていた。

 

カフェインを取る最後の時間をいつもより早くする。

 

いつもより早く起きて、夜に眠気が来るのが早くなるように調整する。

 

夜、スマホを見る時間を短くする。

 

難しい英語のポッドキャストをきいて、眠気を誘う。

 

それらが功を奏したのかはわからないが、いつもどおり22時30分には寝ていた。

 

ビックリするくらいいつもと変わらなかった。

 

さらに、いつもは感じるソワソワや不安というのもあまり感じなかったようだ。

 

不思議だ。

 

いつもの前夜と違う。

 

イメージしていた前夜と違う。

 

いつもどおり夜中に一回トイレに起きる。

 

いつもどおり7時頃に起きる。

 

全く変わらない。

 

拍子抜けしてしまったくらいだ。

 

 

2021年3月7日 朝

 

朝食に行った。

 

全レースを終え、ややリラックスムードにもみえるコンバインドチームのコーチがいた。

 

その中にいたのが

 

 

「山口さん」

 

 

だ。

 

 

「今日はこれから50㎞です。何かアドバイスをください」

 

 

山口さんに聞きに行った。

 

 

「楽しめ」

 

 

いつも通りシンプル且つ的確なアドバイスだ。

 

いつも通りじゃないのは、その後だ。

 

手を差し出してくれたこと。

 

しっかりと山口さんの目を見て、握手を交わした。

 

 

変化を感じたのは、朝食後からだ。

 

コーヒーを飲みながらスマホをいじっていた。

 

所用があり色々な人に連絡を取っていたその時、急にだ。

 

プレッシャーとは全く違ったことを感じた。

 

これから世界選手権で50kmを走るんだと、急に実感したのだ。

 

レストランの横のソファーに一人で座り、何度も深呼吸をした。

 

何度も大きく深呼吸をして、気持ちを整えた。

 

 

 

2021年3月7日 13時

 

オーベストドルフ世界選手権

 

50kmクラシカル、マススタート。

 

いよいよ始まる。

 

今大会「最後の」レースが。

 

アップ前。

 

小池先生に電話をして心を落ち着かせた。

 

スタート前、着替えるたびにキャビンへ。

 

宇田に伝えた。

 

「今日は俺とお前しか走らない。一緒に華々しく散ろう。散ってくれ」

 

馬場はリレー後から体調を崩していた。

 

宮沢は肩の古傷を痛めていた。

 

そのため50kmは出場しなかったのだ。

 

 

スタートへ向かう直前。

 

「その嫁」に電話をして力をもらった。

 

ここまでくれば、いつもと変わらなかったのかもしれない。

 

緊張は始まっていた。

 

 

だが

 

何だろう。

 

うまく表現できないが、清々しい緊張だったのは。

 

そこはいつもと大きく違っていた。

 

スタート前にぶつぶつ何かを言っている「その男」

 

集中しれ、馬鹿野郎。

 

いや、集中しているが故のつぶやきだ。

 

ピストル音と同時に、「その男」がよくブログに書く

 

 

「ラストサバイバル」

 

 

がいよいよ始まった。

 

 

 

思ったよりもコース状況が良い。

 

バーンが固く、心地よいスピード感を得られる。

 

スピードがでるコンディションのため、危険な場面も。

 

下りでは勢いよくクラッシュしている選手もいた。

 

 

「いい感覚だ」

 

「心地よい呼吸のリズムだ」

 

 

走りに手ごたえを感じていた。

 

上り口から上り終わりにかけて、大幅に順位を上げることができていた。

 

問題はそこからの下り。

 

テクニカルなくだりが続くが、ターンをきっかけに抜かれることが多かった。

 

 

「もっと下りの練習もしておけばよかった・・・」

 

 

と思っても、後の祭り。

 

どうにもできない。

 

半分まで来た。

 

このレースはスキーチェンジが1度だけ認められている。

 

半分の4周目の終了で交換・・・・しなかった。

 

流れに乗らなければいけないので、「その男」もそのまま身を任せた。

 

トップ集団でレースは進む。

 

相変わらずいい感覚だ。

 

長い上りもついていける。

 

いや

 

ついていけるのではない。

 

 

順位を上げることができる。

 

 

レースの途中。

 

いきなり女性の声が聞こえ始めた、日本語の。

 

姿は見ることができなかったが、日本チームの女子だというのは容易に想像できた。

 

 

下りを終え会場に入るところ。

 

このレースで運命を分ける出来事があった。

 

5周目が終わりスキーチェンジを始める選手と、交換せずに6周目に行く選手が半分くらいに分かれた。

 

「その男」はどうするつもりだったかというと・・・・

 

 

「交換」

 

 

を選択していた。

 

グリップがやや甘くなりつつあったが、

 

「あと少しで交換だから」

 

と何とか粘った。

 

スキーチェンジのために、スキーピットのある左側に行こうとした。

 

 

 

その時

 

 

下りの勢いのままにフランスの選手が「その男」の左側に現れた。

 

そのまま行けば衝突してしまう。

 

直進するしかなかった。

 

強制的に予定を変えられ、6周目に突入することを意味する。

 

 

「衝突するのを避けるために少し待って、スキー交換をするほうが得策だったかもな」

 

 

後に山口さんに言われた。

 

確かにそうかもしれない。

 

だが冷静に判断するほど「その男」に余裕はなかったようだ。

 

 

同じスキーで6周目に入った。

 

10人くらいが同じスキーで6周目に向かっている。

 

この段階で数秒遅れている「その男」

 

追いつくのに苦戦し始めた。

 

いや、追いつくことができなかった。

 

じりじりと差が開いていく。

 

その間にスキーチェンジをしてフレッシュなスキーを使用している選手がすごい勢いで後ろから来る。

 

新しいスキーはグライドもグリップも全く別物だ。

 

スキーチェンジをした選手についていって、前の集団に追いつこうとしたが全くついていくことができない。

 

ジリジリ離されてく。

 

見えるところにいるが、確実に距離は遠くなっている。

 

「「その嫁」、俺はまだテレビに映っているか?」

 

問いかけた。

 

テレビに映っているということは、トップ集団にいるということ。

 

「テレビに映り続けるから」

 

レース前に約束していた。

 

「俺はまだテレビに映っているか?まだ見てくれているか?」

 

何度も問いかけた。

 

だが

 

無常にもトップはどんどん離れていった。

 

ついていくには完全に力不足だった。

 

スキーを交換してからの残り2周はスイスの選手と一緒に走った。

 

ラスト一周。

 

「あと一周で終わりか・・・」

 

気持ちを切り替えた。

 

コース脇では馬場が大きな声で応援してくれている。

 

 

何かを言ったようだ。

 

 

集中しれ、「その男」

 

その少し先で、宮沢が給水をしている。

 

 

何かを言ったようだ。

 

 

集中しれ、「その男」

 

最後までスイスの選手と走った。

 

この選手にだけは絶対に負けたくない。

 

上り終わりの下りで抜かれたが、途中で抜き返した。

 

コーナーで抜き返された。

 

最後の上りを終え、会場に向かう下り。

 

「その男」の3秒ほど前にその選手はいただろうか。

 

 

「負けたくないよ。負けたくないよ。」

 

 

自然と口にしていた。

 

最後の直線。

 

ダブルポール。

 

持っている力の全てをポールに預けた。

 

できる限り早く、できる限り強く。

 

フォームなんて全く意識できない。

 

全く関係ない。

 

持っている力を全部出せばいいんだ。

 

全部出し切りたかったんだ。

 

 

いつものように拳は突き出していただろうか?

 

 

ガッツポーズしているように見えただろうか?

 

 

全力で足を延ばしてゴールをした。

 

出し切った。

 

レース後はいつもと変わらず、周りの選手と称えあう。

 

「きつかったな」

 

なんて会話をする。

 

いつも通りだ。

 

ただ一つだけ、いつもとあまりにも大きな違いがあった。

 

一瞬目を疑ったようだ。

 

「その男」を先輩とも思わず、いつもならめんどくさがって来ないであろう宮沢が、ゴールゾーンで待っていてくれた。

 

そのまま「その男」を受け止めてくれた。

 

 

 




 

 

機内で、いつもはもらわないような資料が配られる。

 

滞在先の住所を書く欄。

 

移動方法。

 

アプリの登録方法。

 

ルールの書かれた同意書。

 

よくわからないが、空欄を埋めた。

 

本当に始まるようだ。

 

長い長い2週間が。

 

だが「その男」は、2週間の過ごし方を決めていた。

 

PCR検査を受け、資料を提出して、出国検査。

 

荷物を受け取り、専用バスに乗りこむ。

 

ホテルに到着した。

 

「体を動かさなくてもよい。時間がたてば弁当が運ばれてくる。眠くなれば寝ればいい。目覚ましをかけないで、思う存分寝ればいい」

 

そんな時間がホテルの一室で始まる。

 

だが

 

「その男」はパソコンを開いた。

 

そしてつづり始めた。

 

「「その男」、とある理由から2週間、何もしないで良い期間ができた」

 

と。

 

どうやら「その男」は、ホテルに滞在する2週間で、「その男」の過去を振り返るようだ。

 

さて、「その男」はどんな過去を過ごしてきたのだろうか。

 

「お兄がやっていたのを真似して気が付いたら自然と始めていた」

 

長い長い振り返りが始まった。

 

 

 

 

 






 

 

「その男」は時計を見た。

 

3月24日0時31分

 

あっという間に「その男」の自主隔離期間が終わっていた。