その男㊼
一月下旬。
全日本選手権が開催される。
「全日本選手権で上位2名」
上位2名に与えられる権利。
それが
「世界選手権出場権」
だ。
「その男」が今シーズン、もう一度世界の舞台で戦うことのできる唯一のチャンスが世界選手権だ。
絶対に外すことができない。
這いつくばってでも世界選手権の権利を取らなければいけない。
「全日本選手権までには・・・」
シーズン中に何度も発したワードだ。
ここで世界選手権の出場権をとらないと、なにも始まらない。
シーズンが始まってからは、まずはこの大会を目標に集中した。
ポイントもランキングも関係のない、順位ですべてが決まる。
誰にでもあるこのチャンスをつかむべく、「その男」以外のそれぞれの選手もいつも以上に気合が入っていたのでは。
初日 スケーティングスプリント。
2日目 10㎞クラシカル マススタート
3日目 15㎞スケーティング パシュートスタート。
三日間の総合タイムで争う、ミニツール形式で行われた。
優勝するためには、上位2名に入るには1レースも外すことができない。
それが致命傷となる。
十日町はワックスの選択が非常に難しいコースだ。
気温が上がるとクリスター。
雪が降ればルービング。
雪の量が多ければボックス。
「その男」が十日町に入ってからは、連日の高温。
スピード練習をすると汗が流れた。
しかし
大会当日は3日とも猛烈な雪と風になった。
さすがは豪雪地帯の十日町だ。
雪の降り方のレベルが北海道と違う。
雪質もだ。
大会の日に限っていきなり天気が変わることがよくある。
なぜなんだろう、大会の日に限って天気が変わることがよくあるのは・・・
初日 スプリントスケーティング。
予選は4位で通過した。
日本のレースだと、まだ上位でスプリントの予選は通過できるようだ。
決勝に向け、力を温存しながら準々決勝、準決勝を勝ち上がった。
決勝戦。
世界選手権の2枠を争うことになるだろうと思っていた、藤ノ木と山下も順調に勝ち上がっていた。
カイチ君、トモキさん、蛯名、マサト。
大会前はこれらの選手で上位2名を争うと予想していたようだ。
スプリントにはボーナスタイムが発生する。
優勝者は30秒、2位27秒、3位24秒・・・といったように上位30位まで与えられることとなっている。
その与えられたタイムが所要タイムからマイナスされるのだ。
優勝者が予選を3分で走っていたとしたら、そこからマイナス30秒。
1レース目のスプリントが終わったときの所要時間は2分30秒となるのだ。
予選で3分1秒で走った選手が2位となると、そこからマイナス27秒。
2分34秒が初日のタイムだ。
ボーナスタイムは非常に重要となる。
「その男」が優勝し、決勝で走る6人のうち、5位、6位に山下が入るのが理想だ。
しかしそうはいかない。
藤ノ木が引っ張った。
山下がついていく。
その後ろに「その男」
その隊列はゴールまで乱れなかった。
そのままゴール。
3位で終わった。
藤ノ木の地元優勝だ。
地元優勝のうれしさは「その男」も何度も経験している。
うれしかっただろうな。
二日目。
10㎞クラシカル マススタート。
結果から言いたいようだ。
優勝した。
このレースで「その男」の世界選手権出場はほとんど決まったといってよい。
もう一人のある選手が上位2名にはいることもかなり濃厚となった。
藤ノ木か?
山下か?
蛯名か?
いや
「宇田」だ。
猛烈に降る雪と風は、二日目も変わらなかった。
何度も書くように、マススタートで天気が荒れた時は、後ろを滑る選手は余裕をもって走ることができる。
この日もまさにそれだ。
ピストルがなり、スタートした。
3~4分後くらいだろうか?
1㎞過ぎで勝負が決まった。
この時のレーススタイルから、その後「人工圧雪車」と「その男」に名付けられた男。
「宇田」がでた。
決してスタート位置が良くなかった彼が、いきなり飛び出してきた。
選手の後ろを走りたいため、必然的に集団は一列になる。
その長い列の横を宇田が一気に来たのだ。
前日のスプリント。
ポイントが悪いため、スタートが最後の方だった宇田だが、予選を通過。
その後も勝ち進み7位になっていた。
そして今日。
勢いよく突っ込んできた。
「調子がよさそうだ。これは利用したほうがいい」
そう判断して、宇田の後ろにすぐついた。
これが1㎞過ぎ地点での出来事。
宇田が先頭、「その男」がぴたりと2番手。
そのまま平地を進み、長い上りを終えた。
驚いた。
そこで後ろを振り向いたときには、もう集団が離れていたのだ。
「宇田、いける?後ろ離れてるから、このまま引っ張ってもらったらありがたい」
宇田の返事はイエス。
そのまま彼の後ろにつかせてもらった。
その二人よりも、後ろの集団の方が間違いなく楽だ。
宇田と「その男」が走ったレーンを行けば楽をできるのだから。
それでも全く追いついて来ない。
一方的に離れていった。
何度も宇田に尋ねた。
「まだいける?後ろつかせてもらっていい?」
宇田の答えはいつもイエス。
「任せてください、いけるところまで行きます。」
「だって面白くないじゃないですか?天気が悪いからって誰も前に行かないで、集団で走っていたら。」
そんなことをレース中に彼は言った。
5㎞で30秒。
2周目に入るとさすがにきつそうな宇田。
「まだいけるか?」
いつも答えはイエス。
レース中に何度も感謝の言葉を口にした。
「ありがとう宇田。本当にありがとう。一緒に世界選手権行くぞ」
オフシーズンに捨てることができていなかった「その男」のプライドはなくなっていた。
この時の「その男」には文字通り失うものはない。
世界選手権に行けるのなら、何でもする。
「その男」の目の前にいるのは、ワールドカップでトップ10に入ったことがなければ、オリンピックに出場したことがある選手でもない。
ワールドカップでポイントをとったことのある選手でもない。
宇田の後ろにいる「その男」のように。
しかし、「その男」は宇田にお願いし続け、感謝し続けた。
絶対に世界選手権に出なければいけなかったのだから。
前を走ってくれとお願いしてたにも関わらず卑怯だが、利用できるところまで利用させてもらって、ラストの上りで引き離した。
宇田とは約5秒。
後ろの集団とは約1分。
最終日を前に、2位までの二人と、3位以降には決定的な差がついた。
ゴール後、何度も頭を下げた。
「使わせてもらって悪かった。前を引っ張る力がなかった。本当にありがとう」
何度も、何度も深々と頭を下げた。
その時にはプライドなどなかったんだ、そのオリンピアンには。
ワールドカップでトップ10に入ったことのあるその選手には。
その後このレースを宇田を含めて数人で振り返る機会があった。
出た答えの一つが
「残念だ。レベルを物語っている」
「その男」は是が非でも世界選手権に出たかったので、宇田に頭を下げ続けた。
守るものもプライドもなかった。
やるしかなかったのだ、行くしかなかったのだ。
だが後ろの集団。
誰もついて来なかったのだ。
あの吹雪のコンディションで、1㎞過ぎからついて来られないなんてことがあるだろうか。
一緒に走っているのは世界のトップ選手ではない。
ワールドカップではないのだ、全日本選手権なのだ。
絶対についていくという意思はないのか。
そこまで世界選手権にでたいと思っていなかったのか。
仮に宇田の入りに反応できなかったとしても、集団の中から飛び出して、前を狙う姿勢はなかったのか。
周回に行くとき集団が見えたが、高校生が引っ張っていたように見えた。
何かを守りたかったか。
失いたくなかったのか。
もしそうなら、君たちが失うものは何だ?
得たくないのか、世界選手権の切符を。
「その男」は得たかったようだぞ、絶対に世界選手権の切符を。
残念だったと思ったのは、実力の事じゃない。
低いと思ったのは、世界選手権に対する思い、意識だ。
世界を舞台にしたいという意識のレベルだ。
最終日。
「最後までしっかり見てください。」
小池先生に伝えた。
「ゴールまで見てくれ。」
ワックスマンとして来ていて、数年前にワンツーをしたノブヒトに伝えた。
「最後までしっかりやるぞ」
蛯名に伝えた。
パシュートスタート。
1番スタートがその男。
スタート直前は会場が静まる。
静かな会場に響き渡る「その男」の声。
何年振りだろうか?
スタート前に気合を入れるために叫んだのは。
「その男」は逃げ切った、宇田から。
優勝だ。
最後の直線、力なんて入れることができなかった。
オフシーズンからここに至るまでの事を思い出すと。
涙が止まらなかった。
観客なんて全く気にならなかった。
馬鹿みたいに声を出して泣きながらゴールに向かっても。
こんな幸せなことがあるか?
小池先生がゴールで待っていてくれた。
約束通り、ゴールまでしっかり見てくれた。
ゴール脇で「その男」を受け止めてくれた。
ノブヒトもだ。
ゴールするまでしっかり見てくれていた。
蛯名がゴールした。
「勝ちましたか?」
と聞かれた蛯名に
「当たり前だ、誰だとおもってる」
久しぶりに都合よく出た強気。
「良かったです。」
喜んでくれた。
すぐに電話をした。
「その嫁」に。
「どうだった?」
と聞かれた。
おかしい。
昨日、ユーチューブで生配信されていることは教えたはずだ。
優勝したことを伝えた。
「よかった、見たかったけど怖くてレースが見られなかった。オフシーズンから悩み続けている姿を見てきたから、本当に良かった」
泣いて喜んでくれた。
本当に、心からの感謝を伝えたい時には、余計な言葉は出てこないんだと、改めて知った。
「ありがとう」
しかいうことができないということを。
それ以外の言葉が見当たらなかった。
一緒に泣くことができて良かった。
「悔しさ」ではなく「喜び」の感情を持って。
レース前。
会場に到着してワックステントの中へ入ったとき。
ワックスマンが曲を流しているスピーカーから、聞き覚えのあるメロディーが聞こえてきた。
グッときた。
ワックスマンがいるのを全く気にせず、一人で歌った。
「傷つきうちのめされても這い上がる力が欲しい」
から始まるその曲。
長渕剛の
「HOLD YOUR LAST CHANCE」
これは絶対に偶然じゃない。
その歌の終わりの歌詞はこうだ。
「二度と走れぬ坂道を上ったら HOLD YOUR LAST CHANCE」