その男㊻
気持ちの切り替えはメガネからコンタクトレンズへ。
パジャマから練習着へ。
そんなことをしなくても、今日は集中できている。
さすがにコンタクトは入れておくか・・・と思ったようだが、いまだに着ているのはステテコ。
ゴールが見えてきたことによって、俄然やる気が出てきたようだ。
現在に近づき、記憶が鮮明になってきていることも後押ししている。
苦しい記憶の方が多く、ちょっと落ち込みたくなることもあるようだが・・・・
隔離解放まで残り8時間半。
落ち込んではいなかった。
焦っていた、その時は。
名寄大会から約1週間後。
「まだ一カ月ある」
が
「もう一カ月しかない」
にかわっていた。
タイムレースの結果があまりにも悪かった。
その焦りから、「まだ」と思っていた名寄大会の数日後には、「もう」に変化していた。
数日しか経過していないはずなのに、「その男」にはそれ以上に時間が過ぎていたように感じたようだ。
年末は、ナショナルチームが「その男」の地元で合宿をしていた。
ナショナルチームのウェアに身を纏い、練習をしている。
「俺より遅いお前らが、なんで着ているんだ?俺は着てないのによ」
という気持ちが湧いてこないほど自信喪失していた。
「俺より遅い」とはっきり言いきれる自信がなかった。
以前だったらそう思っていただろうに。
このシーズンも、札幌は雪不足。
大会が開催されるかの判断は年明けまで持ち越されていた。
「馬場と宮沢に勝てないから中止になってホッとした」昨年とは、ちょっと違う気持ちだった。
「今のままでは「まだ」勝てない。」
「もし中止になれば、リミットに向けて練習に集中することができる・・・・」
中止を願うようなことはなかった。
だが、中止になることによるメリットはあると思った。
一日何度天気予報をチェックしただろうか。
清田区の降雪情報を何度見ただろうか。
複雑な気持ちで。
たしか1月3日だったはずだ。
「札幌大会中止」
の一方が入ったのは。
「よし、これでまた練習に集中できる期間が長くなる」
すぐに練習プランを練り直した。
3週間後に迫っている大会に向けて。
1月中旬。
北海道選手権(国体予選)が行われた。
何年ぶりの参加だろうか?
6シーズンくらいは経過していたと思う、最後に出場してから。
北海道内の選手のみの参加ということで、レベルが高いわけではない。
初日クラシカル。
優勝した。
久しぶりに。
昨シーズンは一度も優勝していない。
一昨年シーズン、蛯名にスプリントで勝った50㎞以来の優勝だ。
大会規模やレベルを考えると、さほど喜べる結果でもない。
それでも少しはうれしかったようだ。
その夜。
「時間が会ったら部屋に来ないか」
驚いた。
「その男」も話をしたかったので、連絡をしようと思っていたところだったのだ。
やはり「その男」の事を何でもわかるようだ。
小池先生は。
「その男」のことを気にかけて、連絡をくれたようだ。
ドキドキした。
いつも話すときはそんなことは全くないのに。
1時間は話し続けただろうか?
その1時間のうち、どれだけの時間泣いていただろうか、「その男」は。
尊敬する恩師に偽りの気持ちを伝えるわけにはいかない。
思っていることの全てを打ち明けた。
「このままじゃ国内戦ですら戦えない」
ということも、改めて伝えた。
先生からの一言一言が胸に突き刺さる。
胸に突き刺さっても感じるの痛みではなく、優しさだ。
「その男」を想ってくれる気持ちだ。
34歳になりたてのいい大人が、「その男」の子どもと同じように鼻水を垂らしながら泣いていた。
そんな姿だって見せることができる。
「その嫁」には見せられない、見せたくなかった姿だって。
「レベルは違うかもしれないけど、やっぱり君が優勝した姿を見ると嬉しかったよ。教え子の優勝は誇らしかったよ」
レース後は素直に喜べなかった優勝だったが、この言葉を聞いた後、「その男」にとっても喜ばしい優勝となった。
「小池先生を喜ばすことができた」
と。
久しぶりの北海道選手権。
優勝という結果以上のものを手に入れて終えることができた。
次の大会に行くまで、数日家にいることができた。
ワールドカップは変わらず続いていた。
年内のワールドカップに参加をしていたのは馬場のみ。
しかし、年が明けてからのワールドカップには宮沢も合流していた。
日本選手内でFISポイント上位者が宮沢だったためだ。
彼にとって、このシーズンのワールドカップでは初戦となるスプリント。
映像は見られなかったが、FISのサイトでタイムをチェックしていた。
スプリントは距離が短い。
故に、タイムチェックの箇所も中間に一か所あるのみだ。
コンマ数秒を競うため、わずかな差で大きく順位が変わる。
ディスタンスと違い、中間地点からも大きく順位の変動がある。
宮沢がスタートしたようだ。
画面を見ながら、彼の通過タイムを待つ。
スプリントの時にタイムチェックを見ていると、1秒がやけに長く感じるのは「その男」だけではないと思う。
中間地点。
あまりよくなかった。
「がんばれ宮沢。まだ中間地点だ。後半で一気に挽回してやれ」
画面に向かって声を出し応援している「その男」
その時だ。
「本当にそう思っているの?」
「その男」がドキッとする質問が横から飛んできた。
「その嫁」からの質問だった。
「ん?」
聞こえなかったふりをした。
「本当にそうやって思ってる?」
もう一度聞いてきた。
即答できない自分がいた。
「その嫁」もまた、「その男」の事を何でもわかるのだ。
声を出している「その男」の応援は「偽りの応援」に見えていたのだろうか。
「本気で応援はしている。それは間違いない。だけどそこで活躍しているのが自分でないのは面白くない。」
「そういった意味では100%応援できていないのかもしれない。」
それが「その男」の答えだ。
言葉にするのが難しい。
この複雑な感情を伝えるのは。
決して
「予選で落ちろ」
「活躍するな」
そう思っていないということは理解していただきたい。
いくら性格の悪い「その男」であったとしても。
以前にもあったのだ。
昨シーズンのオーベストドルフで行われたワールドカップが終わった夜だ。
屈辱のレース後だ。
いつものように連絡をしたとき。
「私の事、恨んでる?」
一瞬固まった。
なんでわかるんだ。
「その男」と一緒にいるわけでないのに。
その時はテレビ電話でなかったので、表情は見えずに声を聞いているだけなのに。
そうだった。
レース後に気持ちを落ち着かせることができていなかった「その男」。
その時は「その嫁」の事を恨んでいた。
「その男」のスキーをいつも第一に考えてくれている「その嫁」を。
あれだけサポートをしてくれ、子どもたちの面倒を見てくれ、「その男」のわがままに付き合ってくれている「その嫁」さえも。
何でもバレてしまうんだ、「その嫁」には。
「その男」が家では決して見せないように心掛けている弱い姿も、嫁にとっては全て見えていたはずだ。