その男㊶ | neppu.com

その男㊶

「25時間」

 

いよいよ近づいてきた。

 

「その男」が解放される日が。

 

ルールでは、24日の0時00分にホテル生活からの解放となるようだ。

 

それが意味するのは。

 

「その男」の振り返りの終わりだ。

 

寂しいと思ってくださる方が多いか?

 

いいかげん終わると思う方が多いか?

 

前者が多いと、ここまで書き続けてきたことの意味が増す。

 

「家に帰ることができるのはうれしい。それにより振り返りが終わる。終わってしまう。」

 

早く帰りたい気持ちと、「その男」の終わりに寂しさを感じているようだ、「その男」は。

 

複雑な心境だ。

 

 

 

何かが狂っていた。

 

それが何かはわからないが、確実に。

 

それを感じ始めたのは、秋口だった。

 

スピード練習をしていてもしっくりこない。

 

全力を出してきついのだが、追い込み切れない。

 

それは感覚だけでなく、心拍数が物語っていた。

 

呼吸の限界がくるまえに、筋肉の限界が来てしまい、脈が上がりきらない。

 

我慢ができない。

 

この年の秋口は、ナショナルチームの合宿でオーバホフへ行った。

 

SOSのメールを送った。

 

タイヒマンに。

 

 

「走りの感覚がおかしい。特にスケーティングが。オーバホフに合宿で行くから、走りを見てくれないか?」

 

 

了解の返信があり、彼にマンツーマンでみっちり指導してもらった。

 

後ろを走ってもらっては止まり、指導を受ける。

 

それぞれのテクニックごとに詳細に。

 

なんという至福の時間だろうか。

 

元ワールドカップ総合チャンピオンにマンツーマンで指導してもらえるだなんて。

 

それでも走りの違和感は拭えなかった。

 

スキートンネルでスキーに乗ったときも、やはり感覚がちがう。

 

何かがずれているのだが、それがわからない。

 

 

「スーパースケーティングできない病」

 

 

に近い感覚だった。

 

スキーに乗ることができず、滑らせることができない。

 

シーズンインを迎えても、それは改善されていなかった。

 

すごく焦っていたようだ、「その男」

 

ノルウェーのベイトストーレンから開幕したこのシーズン。

 

このレースには「その男」が昨シーズンオフにノルウェーに行った際、一緒にトレーニングをさせてもらった、「LYN SKITEAM」も来ていた。

 

そのチームのコーチとの再会をした。

 

 

「走りが悪すぎるから見てほしい」

 

 

と伝えると、快諾してくれた。

 

自分が走っている映像を一緒にみたが、ほかのコーチも呼び寄せてくれてアドバイスをくれた。

 

本当に優しかったなぁ・・・

 

アドバイスをもらった翌日にはレースがあったが、すぐに直るほど甘くない。

 

走りの感覚の悪さ、不安は的中する。

 

このシーズンの初戦。

 

 

クラシカル15㎞レース

 

 

97位

 

トップから遅れること4分55秒。

 

スキー王国ノルウェーでのFISレースはレベルが非常に高い。

 

ここで優勝することは、ワールドカップで優勝することに匹敵する。

 

ここで20位以内に入れば、ワールドカップでも30位以内に入る実力に匹敵するのではないだろうか。

 

それにしても、ひどい結果だ。

 

もう少しで3桁。

 

こんな順位、久しくとっていないはずだ。

 

 

翌日のスケーティングは40位。

 

クラシカルの順位から比べるとよほど良いが、例年の成績からいくと全くよくない。

 

何が悪いのかがわからない。

 

気が付けば鏡の前にいることが増えた。

 

エアースケーティング、エアーダブルポール。

 

何度も自分の動きを確認した。

 

部屋でポールをついて(穴はあけてない)確認することもあった。

 

ビデオを眺める時間も増えた。

 

何をやっても、どうやっても変わらなかった。

 

 

ルカのワールドカップ。

 

クラシカル49位。

 

スケーティング48位。

 

呼吸よりも先に筋肉がきつくなり、ペースが上がらないことに変わりがない。

 

「スキーを蹴って進むんじゃない、体重の移動で進むんだ。」

 

「腹で押せ、腕で押すな。腹で押しきれ。」

 

色々と試した。

 

良い感覚だったときに戻ろうとしたが、どうすればよいかわからない。

 

 

 

ここまで文章を書き進めても、まったくポジティブなことが思い浮かばないようだ、「その男」は。

 

それくらい酷かった。

 

まだまだネガティブな思い出ばかり浮かんでくる。

 

 

 

リレハンメルのワールドカップ。

 

スキーアスロンマススタート。

 

スタート直後から遅れた。

 

全くついていけなかった。

 

トップは遥か彼方。

 

見えなくなっている。

 

馬場さえも見えないところにいる。

 

世界選手権で30位には入っていた馬場。

 

しかし、初めて馬場がワールドカップポイントをとったのはこのレースだ。

 

覚えているだろうか。

 

「その男」が初めてワールドカップポイントをとったときのことを。

 

「絶対的なエース」と「憧れのライバル」から初ポイントを祝福され、喜んだことを。

 

その後、誰かの初ポイントに立ち会えた時は、初ポイント祝いを渡していたことを。

 

しかし、初ポイント祝いを渡せるような、他人を想う気持ちの余裕がない。

 

ましてや、馬場の初ポイントを喜ぶこともできていなかったようだ。

 

それくらい追い込まれていた。

 

 

翌週。

 

スイスのダボス。

 

例年のよりも、美しい景色、山々を楽しむことができていなかったように思える。

 

考えることはいつも

 

 

「どうやって走るんだ」

 

 

うらやましくなった。

 

会話を楽しみながら、ゆっくり走っているほかの選手を見るたびに。

 

 

「なんで俺のほうが集中しているのに、練習をしているのに、考えて走っているのに、あいつのほうが速いんだ?」

 

 

ネガティブな子ばかり頭に浮かんでいた。

 

このレースは39位。

 

馬場は43位。

 

宮沢は67位。

 

正直ほっとしてしまっていたようだ。

 

 

「良かった、「日本人」のなかで一番だ」

 

 

と。

 

自分の順位を悔しがる気持ちと、日本人に負けなくてよかったという気持ちが、気が付けば逆転していた。

 

レースを重ねるたびに自信を失っていった。

 

それでもヘラヘラした。

 

 

「いやーイマイチでしたねー。まぁ、次頑張ります!」

 

 

レース後にはいつものようにコーチやワックスマンに伝えた。

 

 

「その男」のブログもいつものようなトーンで記事が更新されていた。

 

 

「めちゃめちゃしんどかったです!いいところなく終わってしまいました!」

 

 

「ですが・・・・次のレースはしっかり走ります!サバイバル!」

 

 

本人の気持ちとは全く違うトーンで言葉が並べられていた。

 

 

「何をやっても駄目なんです。どうにかしたいんですが、うまくいかないんです。」

 

 

「レースを走るのが辛い。馬場と宮沢に負けたくないんです。」

 

 

「今日のレースは39位でしたが、日本人でトップだったから正直ホッとしています」

 

 

本心を並べればこうなるのだろうか。

 

いや、こんな言葉だけで終わるわけがない。

 

もっとネガティブな言葉が並ぶはずだ。

 

 

もっとひどい言葉が並ぶはずだ。

 

 

シーズンが進むにつれて、自分でも嫌になるほど変わっていってしまったようだ、「その男」は。