その男㊳
「びっくりしましたよ、24時過ぎに更新しているので」
「その男」が宇田に連絡をしたときの返事だ。
たしかに、宇田には想像できないだろう。
「22時30分消灯、7時前起床」
つい数日前まで規則正しい生活をしていた「その男」からは。
「0時30分消灯、8時起床」
が「その男のサイクルになっている。
罪悪感を感じなくなった。
何かやらなくちゃいけないという焦りが薄くなってきている。
確実に時間が経過している。
「世界選手権50㎞が終わってから」
例年と違う寂しさを、ふと感じることがあった。
「レンティング」がいない。
オリンピックが開催された昨シーズン。
彼は引退をしていた。
当たり前に一緒に遠征を回り、国内にいても当たり前に会場にいた彼がいない。
あの独特のふてぶてしさを見ることができない。
「ユキティー」
彼女もだ。
「その男」が大学生の時から世界ジュニア、U-23世界選手権、そしてワールドカップをともにした彼女だ。
「一緒に走ることができるのは明日が最後です」
昨シーズン、年始に行われた札幌FISレース中に連絡をくれた彼女。
どうやら悩んでいたようだ。
連絡をもらったその日、「その男は」体調がよくなかった。
FISレースは三日間あり、初日のレースで体調不良を感じていた。
そのため、二日目のスプリントは、レースを棄権していたのだ。
連絡がきたのはレースに出場しなかったその日の夜。
体調は良くなっていたように思えたが、オリンピックを控えているので無理をする必要はない。
だが、三日目のレースには出場したかった。
「無理はできない、だが出場はしたい」
そんな葛藤していた時に、彼女からの連絡。
即決だった。
「出場する」
彼女が滑る姿を見られる、一緒に出場できる最後のチャンス。
見逃したら、棄権したら絶対に後悔すると思った。
結果的には一緒に優勝することができた。
最高の最後だ。
彼女の声援は、もはや大会会場の名物となっていた。
「騒がしい、うるさい」
と・・・・
だが、その声も聴けなくなると寂しいようだ。
彼女を応援できる最後のレース。
スタート前に彼女に会い、レース中はアップをしながら応援し、ゴールで待った。
一つ決めていた。
「いつもうるさいくらい全力で応援してくれる彼女だから、最後くらいは「その男」も同じくらいでかい声で応援しよう」
と。
それは無理だった。
恥ずかしさは全くなかったのに。
彼女の滑る姿を見られるのが最後だとおもうと悲しすぎて、声を出すことができなかったからだ。
彼女のいつもの声量と比べると雲泥の差だったが、何とか声を振り絞って、「その男」なりの全力の応援をした。
大きな声は出せなかったけど、その滑りをしっかりと目に焼き付けた。
視界が狭く、ぼんやりしていたことは言うまでもない。
オリンピックに向けてさらに気持ちを高めることのできる良いレースだった。
もう一人、昨シーズンで引退していたのが
「宇田」
だ。
ここではこの事実を伝えるのみにしておきたい。
このシーズンは、オーストリアのゼーフェルトで世界選手権が開催れる。
選考方法が大幅に変更となっていた。
ワールドカップでのポイント獲得という点は変更がない。
大きく変わったのは、ナショナルチーム外の選手にも出場チャンスが大きくなったことだ。
ワールドカップでポイントを獲得している選手を除いて
「1月下旬に開催される、全日本選手権優勝者、上位者」
様々な詳細がこの条件にはあったが、ここでは割愛するようだ。
最大で男女ともに4名。
この全日本選手権前、ワールドカップポイントですでに条件を達成していたのは
宮沢
「その男」
だ。
よって、男子は2名が全日本選手権の結果で選出される。
馬場はまだポイントをとっていなかったと記憶している。
ダボスで33~34位くらいだったではないだろうか。
だが確実に実力をつけていた馬場は、この大会で総合優勝し世界選手権出場権を得ることとなる。
二位には宮沢が入った。
あれ?
「その男」は?
そのレースが行われている時、「その男」の姿は札幌の自宅にあった。
全日本選手権出発直前。
気管支炎になってしまった。
とてもでないが、レースで走れる状態ではない。
幸いワールドカップで世界選手権の出場権は得ていたので、全日本選手権をパス。
世界選手権に向けて体調を整えていたのだ。
毎日寝続けていた。
あの時期はいろんな面でしんどかったようだ・・・
順当に1位、2位が決まった。
これで世界選手権四枠のうち三枠が埋まった。
最後の四枠目。
滑り込んだのは
「カイチ君」
だった。
この世界選手権の出場に賭けていたらしい。
夏場は練習に集中をするために、家族と別居をしていたそうだ。
開催地が彼の地元ということもあり、気合も増していただろう。
「その男」も喜んだ。
特別視していた彼が出場できるということはもちろんだが、ほかにも理由がある。
当時の彼は30歳。
世界選手権に選出されるのは初めてだ。
「長い間あきらめないで続ければ、チャンスは必ず来る」
そんなことを体現してくれているかのようだったからだ。
女子で初選出された石垣さんもそうだ。
社会人になってからも長い間競技を続けることで、世界選手権の出場権を始めてこのレースで獲得した。
「その男」も確実に年齢を重ね、ベテランの域に入っていた。
年齢が近い選手の活躍は余計にうれしく感じていただようだ。
「馬場、宮沢、カイチ君、「その男」」
この四人で世界選手権に挑むこととなった。
「その男」にとって5度目の世界選手権がはじまる。
特別な世界選手権が。
初戦
スキーアスロン30㎞
前回大会のスキーアスロンのようにはいかなかった。
クラシカルパートで遅れた。
上りと下りがはっきりとしているクラシカルパート。
長い上りでクラシカルのスペシャリストが引っ張り、ペースは速かったのだ。
一度離れてしまってから、追いつけるほど「その男」には力がない。
数人の集団でレースを進め、そのままフィニッシュ。
19位に終わった。
ゴールをしてからしばらくミックスゾーンに立っている「その男」。
何かを待っているようだ。
いや、誰かを待っているようだった。
数分後にそこに来たのが
「カイチ君」
「その男」の「憧れのライバル」の弟。
何度もかけてもらった優しい言葉が忘れられていないのだ、「その男」は。
何度も救われたのだ、「その男は」
「憧れのライバル」からの言葉に。
「その男」からしてみると、家族と一緒に過ごせる時間をあえて断ち、練習に集中するために別居するなんて馬鹿げているように思えた。
ありえない。
「その男」も家庭を持つ身だ。
彼にとっても苦しい決断だったことはわかる。
だが、
そうしてまでもこの大会出場に賭けていたのだ。
そして勝ち取ったのだ。
彼の苦しさを、「その男」はほんの一部しか理解できていなかっただろう。
見えない部分で、たくさん苦労していただろう。
でも、だから伝えたかったのだ。
「がんばってきてよかったな、続けてきてよかったな」
と。
そのレースの結果に満足していた彼ではないので、どう受け取ったかはわからない。
もしかしたらよく受け止めてくれなかったかもしれない。
それでも、「その男」は伝えたかったようだ
「憧れのライバル」
君のお兄ちゃんのように。
他にも「その男」の想いを伝えた。
「一緒に走りに行って話しましょう」
と誘われ、その日の夕方に一緒にランニングへ行ったあの時間が忘れられない。
「その男」自身の事を伝える時間が多かった。
「その男」なりの覚悟があったのだろう。