その男㊱ | neppu.com

その男㊱

嬉しかったようだ。

 

 

「その男」の家に尋ね人があったらしい。

 

「その男」が大好きな、甘いお菓子を片手に。

 

「その嫁」からその連絡があった時は驚いた。

 

 

なんで?

 

と思った。

 

正直、めちゃめちゃ絡みがあったわけではない。

 

長い時間を共にしたわけではない。

 

だが、想いをもって「その男」の家を訪ねてくれたようだ。

 

嬉しかったのは、大好きなお菓子をもらったからではない。

 

「何かが伝わっていただろうから、我が家を訪ねてくれたこと」

 

がだ。

 

いや

 

それ以上にうれしかったのは、

 

「かっこよかった」

 

って言ってくれたことかな。

 

ほら、「その男」は普段そんなこといわれないからさ。

 

 

 

スタート前のワックスキャビン。

 

いつもと変わらず、相棒を手にした。

 

その手は、いつものように腰にいかなかった。

 

そのまま頭へ向かった。

 

何年振りだろうか?

 

おそらく最後は高校三年生の18歳。

 

この時の「その男」は31歳。

 

13年振りということだ。

 

 

「その男」はいつも巻いていた腰ではなく、頭にハチマキを巻いた。

 

 

数年前のニセコでの合宿。

 

JR北海道が行っていた合宿に参加させてもらった。

 

そこには山口さんもコーチとして来ていた。

 

コンバインドの選手や、スケートの選手もおり、面識がない人もいたため自己紹介が始まった。

 

自分が何を話したかは覚えていない。

 

 

「2018年の平昌オリンピックで金メダルを取ることを目標に、指導をしています」

 

 

山口さんが言ったこの言葉ははっきりと覚えている。

 

「その男」は、それが自分に向けて発された言葉だと思っていたようだ。

 

 

「平昌オリンピックの50㎞で金メダル」

 

 

「その男」の実績から見ると、笑われてしまうような目標だったかもしれない。

 

トップ10に入って、喜んで泣いているような男だ。

 

周りには笑われようが、無理だと言われようが、「その男」にとって平昌オリンピックの50㎞での金メダルは、断固たる「最終目標」だった。

 

 

「その男」にとって、色々な意味で特別になるであろうこのレース。

 

「原点に戻る」

 

気合を入れるために、頭にハチマキを巻いたのだ。

 

 

ウォーミングアップ中。

 

観客席には両親がいた。

 

兄がいた。

 

家族がいた。

 

村から駆けつけてくれた応援団もいた。

 

レースが終わったわけではない。

 

結果が出たわけでもない。

 

「ずっとサポートしてくれた両親と兄を、家族をここに連れてくることができた。」

 

「小さいな頃から応援してくれる村の方々を、一緒に戦った元チームメートをやっとここに連れてくることができた」

 

そう思うだけで涙がこぼれかけた。

 

が、まだレースは始まってない。

 

グッとこらえた。

 

まだ早い。

 

レースに集中だ。

 

 

あまり覚えていない。

 

レース展開を。

 

いつも以上に速い展開だったということは記憶にある。

 

すぐに集団から遅れた。

 

何かが起きる、粘れば。

 

そう信じて走ったことも。

 

が、何も起きなかった。

 

トップとは離れ、どんどん見えなくなった。

 

最後のほうは、コースの反対側にトップがいた。

 

それは数キロ遅れていることを意味した。

 

「その男」がゴールする数分前には、会場は歓喜で沸いていた。

 

興奮する実況が聞こえてきていた。

 

トップがすでにゴールした時、「その男」は三人で走っていた。

 

「この二人にだけは絶対に負けるな、絶対に負けるな」

 

結果的にはこの二人を引き離しゴールをした。

 

この時も拳を突き上げてゴールしていたのだろうか?

 

0.1秒でも早くゴールしたかった。

 

最後まで全力を出し切りたかった。

 

前にも後ろにも、横にも選手はいなかったが、全力で足を出してゴールした。

 

 

ゴール後のミックスゾーンでのこともあまり覚えていない。

 

覚えているのは、「その嫁」が選手が帰る際に通る道の脇から、手を振ってくれていたことだ。

 

早くそこに行きたいと思っていた。

 

早く「その嫁」のところに行きたいと。

 

 

温かく迎え入れてくれた。

 

目標とする金メダルをとれなかった悲しさを忘れさせてくれるほど、優しく受け入れてくれた。

 

「ありがとう」

 

の言葉以外出てこなかった。

 

「その嫁」にも、家族にも、両親にも、兄にも。

 

応援団にも、元チームメートにも。

 

その5文字が全てだったのだ、「その男」の気持ちは。

 

同じように「ありがとう」と言ってくれた元チームメートのワタル、マサタカ、そして館野。

 

一緒になって泣いてくれた元チームメートの頭には、「その男」と同じように赤いハチマキが巻かれていた。

 

 

次男ががおちゃらけて言ってきた。

 

 

「パパに金メダルあげるよ」

 

 

ふざけていっているようだったが、それを聞いてまた涙がでた。

 

「その男」にとっては最高の言葉だ。

 

少しは「自慢の親父」に近づけたのかな。

 

成績は目標に達しなかった。

 

遥かに達しなかった。

 

それにもかかわらず「その男」は

 

「幸せだな」

 

と、取材に来ていたテレビカメラに向けて自然と発していた。

 

やっぱりオリンピックは特別なんだ。

 

 

どうやらこの時、このやりとりをもう一人の小さな男の子も見ていたようだ。

 

「その嫁」のお腹の中から。

 

 

 

一度選手村に戻ってから、閉会式へ向かった。

 

ここで行われることは、各国の選手による行進。

 

様々な方からの挨拶。

 

次回オリンピックのプロモーション。

 

そして表彰。

 

ご存知だろうか?

 

現地ではなく、閉会式で唯一表彰される種目。

 

それが男子50㎞なのだ。

 

 

「オリンピックの最終日に、閉会式でみんなの前で表彰される。こんな名誉なことがあるか?」

 

 

山口さんが数年前に言っていた。

 

閉会式で表彰される選手を、選手が待機する観客席で見ていた。

 

それを誰かと見るのが辛くて、席を離れて遠くから一人で眺めた。

 

高々と掲げられる、フィンランド国旗。

 

なんとも神々しいシーンだったことを覚えている。

 

 

「あそこに立つことを目標にこのオリンピックに来たんだよな」

 

 

悔しくてまた泣いていたようだ、「その男」は。

 

 

色々なことを考えさせられるオリンピックだった。

 

書きだそうと思うとキリがないようだ。

 

全てを書くことは割愛したいと思う。

 

一つだけ書くとしたら

 

「クロスカントリーを続けてきてよかった。クロスカントリーでよかった」

 

そんなことを改めて思わせてくれた。

 

オリンピックはやっぱり特別だった。