その男㉝ | neppu.com

その男㉝

まだレースは続いている。

 

相変わらず、セイコーの速報を見ながら過去を振り返っているようだ。

 

33.2㎞のタイムチェックでトップにでたのは「カイチ君」

 

北京オリンピックを来年に控えるこのシーズン。

 

派遣基準は、まだ発表になっていないようだ。

 

しかし、全日本選手権優勝は来シーズンのオリンピック選考レースに向けて、何らかのアドバンテージになるだろう。

 

四年前のリベンジを果たすきっかけを作るべく、カイチ君が優勝するのか。

 

新たな若手が出てくるのか。

 

ワクワクしながら最終結果を待ちたいと思う。

 

あぁ栄冠は君に輝く。

 

 

 

自分が想像していたよりも、華々しくなかった。

 

 

 

少し嫉妬していた。

 

 

 

平昌オリンピック代表発表当日。

 

 

最終選考レースの日程が違うこともあり、発表は数回に分かれて行われた。

 

「その男」は、12月下旬の発表だった。

 

最も早く発表されるグループだ。

 

発表される日は事前に伝えられていたので知っていた。

 

 

「オリンピック発表になったんだね、おめでとう」

 

 

知人からのそのラインで知った。

 

正式にオリンピックが発表になったタイミングは。

 

家に帰ってからテレビをつけた。

 

 

同じ日にオリンピック代表を発表されたボードの選手が何人も映っていた。

 

たくさんのフラッシュ、カメラに囲まれて記者会見をしていた。

 

 

 

「オリンピックの目標は?メダルは取れると思う」

 

 

 

といったことを聞かれていたのだろうか?

 

代表発表された同じ場で、名前を呼ばれた「その男」は、テレビでそれを見ている。

 

 

 

なぜなんだ?

 

 

オリンピック出場を発表されてなお、劣等感を感じなければいけなかったのは。

 

 

「その男」の夢だったオリンピックに出場することで、現実を見た。

 

 

 

二度目のオリンピック。

 

 

少し寂しさを感じた。

 

周りの種目の選手は、複数の選手が出場するため団体で行動している。

 

しかし、クロカンの男子は「その男」のみだったため、単独の行動が多かった。

 

種目によってレース開始時間が大きく異なる。

 

それに合わせた行動をとっていたため、他種目の選手に会う機会もそう多くはなかった。

 

たまに会う、ほかの種目との選手の会話がいつも以上に楽しかった。

 

他国のクロカン選手は、みんな一緒に楽しそうに食事をとっている。

 

それを遠くから指をくわえてみていた。

 

ここでも劣等感を感じていたかもしれないようだ。

 

オリンピックの選手村での恒例行事ともいえることがある。

 

それが、ピンバッチの交換だ。

 

各国のフラッグが書いてるピンバッチが用意されており、それをIDカードの紐につけるのだ。

 

日本チームからもピンバッチが支給された。

 

食事中にいきなり呼び掛けられるのだ。

 

「HEY「その男」!このピンバッチクールだろ?君のそのクールなやつと交換しないか?」

 

といったように。

 

これはかなり陽気な人から話しかけられた例だが。

 

各国のピンバッチをコンプリートしたい人もいるのか、紐がピンバッチで埋まっている人もいる。

 

その男のIDカードの紐も、ピンバッチで染められていった。

 

 

「相手が交換を求めてくる」

 

 

ことによって。

 

自分から交換はほとんど求めていなかったようだ。

 

「その男」の性格の悪い部分が出ていた。

 

恥の文化、日本。

 

典型的なそれに影響されているのだろうか、「その男」は。

 

 

「話しかけて、変な顔をされたらどうしよう」

 

 

「英語を間違ったらどうしよう」

 

 

「断られたらどうしよう」

 

 

消極的に考えてしまうようだ。

 

そのことで、このオリンピックも100%「楽しむ」ことができていなかったことに、後日気づくことになるようだ。

 

 

 

楽しむのは普段の生活。

 

レースは集中だ。

 

 

オリンピックはやはり特別だ。

 

 

初戦の30㎞スキーアスロン。

 

スタート前の雰囲気が全く違う。

 

初めて出場したオスロの世界選手権。

 

ワールドカップとの空気の違いを強く感じた。

 

しかしオリンピックの空気は、世界選手権とも全く違う。

 

スタートを待つ選手がいる場所は、空気が張り詰めていた。

 

気温が低く、風が強かったスキーアスロン。

 

スタート地点へのコールを迎えても、いつもよりも選手の動きが鈍い。

 

体を冷やしたくないので、少しでも長く待機場所でウェアを着ていたいからだ。

 

この光景も、普段はあまり見ないと思った。

 

スタートのピストルがなり、レースは始まった。

 

その様子をテレビで見ていた後輩が

 

「その男」さんが、無事にスタートした。それだけで泣ける」

 

と、SNSにアップをしてくれていた。

 

レース後にそれを見るだけで「その男」も泣きそうになった。

 

自分が知らない場所で、応援してくれているんだと改めて感じることができたからだ。

 

何十件ものラインが入っていた。

 

「その男」が走るレースを見ている友達が、グループ内で実況するようにやり取りをしている。

 

画面越しに応援をしてくれている。

 

その中には、こんな一文もあった。

 

「「その男」がオリンピックに出ることで、○○と久しぶりに連絡を取ったよ。みんなと久しぶりに連絡を取り合うきっかけをつくってありがとう。」

 

初戦のレースを終えた時。

 

以前感じていた劣等感は少しだけ、だが確実に薄れていた。

 

25位、トップから2分3秒遅れ。

 

「その男」にとって、初めてのオリンピック個人戦が終わった。