その男㉚
人と話すことに飢えているのか?
今日は、とある記者の方とズームで話す機会があった。
30分~40分の予定だったものの、気が付けば1時間半をオーバーするほどに。
人と接することのないこの生活に、寂しさを感じているところもあるのだろう。
この生活に充実感はあるが、体と心は正直のようだ。
時間があるため、「その男」の嫁に連絡する機会も増えている。
テレビ電話をする機会も増えているようだ。。
「旦那が隔離生活で暇をしているようで、旦那からの連絡が増えている」
「その男」の嫁がフェイスブックで愚痴ったようだ。
今日も「その男」の家庭は平和だ。
初のトップ10に入ったそのままの勢いで、現地入りした。
このシーズンで大きなチャンスとなるレースに。
プレオリンピック大会。
韓国の平昌で開催されたワールドカップだ。
翌シーズンのオリンピック会場でテストレースとなるワールドカップが開催される。
種目は30㎞スキーアスロン。
なぜ大きなチャンスだったのか?
翌年のオリンピックに向けて、強豪国からの参加はあった。
ワックスやコース情報も必要となるため、いつもと変わらないコーチやワックスマンは来ている。
しかし。
ヨーロッパから韓国に来るには、移動距離や時差が大きすぎる。
日本人はヨーロッパに行く際は毎回のようにこれらを体験しているが、ヨーロッパ選手がアジアに来ることはなかなかない。
時差調整などで苦戦し、調子を崩してしまうことを懸念したのだろうか?
さらには各国でナショナルチャンピオンシップ(日本で言う全日本選手権)が開催される週ということもあった。
そのため、ヨーロッパのトップ選手はこの大会に出場しなかったのだ。
言ってしまうならば、非常にレベルの低いワールドカップ。
ノルウェーやスウェーデン、ロシアなどの強豪国からはセカンドチームの参加となった。
それは、「その男」にとっては大きなチャンスとなるのだ。
オリンピック派遣標準を切るための。
スタート位置はランキング順で決まるが、「その男」は4番目だったはず。
普段のワールドカップでは40番前後のランキングだったことを考えると、どれだけのトップ選手が出場していなかったのかが容易にわかる。
前レースでトップ10に入っていたものの、ここで派遣標準を切らなければ、一気に状況が厳しくなることはわかっていた。
ここで必ず切らなければならない。
このレースでオリンピックを決めるためには、10位以内に入ればいいのだ。
レース前夜。
スタートリストと、FISのサイトとにらめっこをしていたようだ。
ランキング上位選手の過去の実績をひたすら調べた。
クラシカルが得意なのか?
スケーティングが得意なのか?
スプリントは強いか?
近年と以前だと、成績がいいのはどっちだ?
最近の成績はどうだ、調子はいいのか?
翌日の作戦を練るための情報収集だ。
大切な情報を頭に叩き込んでいた。
午後からのレースだったので、午前中は軽くランニング。
同じようにランニングをしている他国の選手とすれ違うことがあったが、その選手たちがいつもよりも強そうに見えた。
「俺だってトップ10に入った男だぞ」
弱気になりそうなときには言い聞かせた。
そしてレースが始まる。
何度もカウントした。
10位の選手はどこまでかと。
よそ見をしていたわけではないが、レースに集中しきれていなかったのか?
ポールをまたいでしまい、折れた。
ラクルーザでポールを折ったときはつい笑ってしまった。
しかし、この時は冷静ではいられなかった。
早く予備ポールをもらわないといけないと気持ちが焦り、ポールを受け取るときに他の選手の進路妨害をしてしまった。
「その男」が今日までに受けてしまった唯一のイエローカードだ。
ポールを受け取ってからはトップ集団に追いついてレースを展開したが、クラシカルパートはきつかった。
クラシカルパートでかなりの力を使ってしまったと記憶している。
しかしなんとかして粘れば、トップ10に入った走法、スケーティングだ。
それが、「その男」の精神を支えていた。
改めて振り返ると、ウルリセハムでトップ10に入ったのは、オリンピック出場が近づいたということ以外にも多くの利益をもたらしていたように思える。
トップ集団後方でスケーティングに入った。
スケーティングに入り、レースが落ち着いたときの集団は11~12人だと記憶している。
「誰か、早く脱落してくれ」
他力本願になっていた。
スケーティングパートに入ってからは、何度後ろを振り向いたかわからない。
何度自分の順位をカウントしたかわからない。
後にこのレースの映像をみたが、「その男」が何度も後ろを振り返る姿が映っている。
自信がないように見え、弱々しく見える。
そんなことを気にしている余裕などなかった。
オリンピック出場のためのビッグチャンスを逃すわけにいかないのだ。
トップの選手が仕掛けた。
二人反応して、三人で抜けた。
「その男」は全く反応しなかった。