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その男㉖

もはや「その男」もわからなくなっているようだ。

 

自分自身が何度「その男」シリーズを更新しているかを。

 

どうやら今回で26度目の更新らしい。

 

ホテル生活は10日目に入った。

 

一日で2.6回の更新ペース。

 

今まででは考えられないペースだ。

 

しかし、このペースで振り返っていくと40度は更新することになるのではないかと思っているようだ。

 

このペースでは時間が足りない。

 

さぁ、後半に向けてペースを上げていこう。

 

「その男」がスキーで最も得意とするスタイルと同様に

 

 

「その男」を取り巻く環境が大きく変わっていた。

 

ソチオリンピック翌年のシーズンだ。

 

 

「日本の絶対的なエース」

 

 

 

 

「憧れのライバル」

 

 

がオリンピックイヤーで引退した。

 

そのことにより、「その男」が男子チーム最年長になった。

 

「その男」にスキーの厳しさを教え、私生活まで正してくれた尊敬する山口さんがチームから抜けた。

 

親友のファビオが、ジャパンチームからカナダチームに移った。

 

ナショナルチームの正確な選考基準がなかったが、このシーズンに「限り」若手メンバーも入るようになり、一気に増えた。

 

ヘッドコーチがフィンランド人となった。

 

戸惑ったようだ、「その男」は。

 

ワールドカップを転戦し始めてから、当たり前だった環境が一気に変わってしまったのだ、無理もなかっただろう。

 

振り返ると、このシーズンあたりから「その男」は徐々にひねくれはじめたと思っているようだ。

 

「選手とコーチの立場が逆転してはいけない。このままでは僕は勘違いしてしまう。悪いことをしたときにはしっかり怒って

ほしい。怒ってもらわないと、勘違いしてしまう。何をやってもいいんだ、言ってもいいんだと。」

 

 

その厳しさにさえも魅力を感じていた山口さんから、優しさでチームをまとめるタイプのコーチに変わった。

 

そのため、「その男」はそのように伝えたらしい。

 

自分自身にも、チームにも厳しさを欲していたようだ。

 

残念だったことは、その後「その男」は怒られることがなかったことだ。

 

 

ヘッドコーチとなったフィンランド人コーチのミッコとも反りが合わないことが多かった。

 

そのコーチはスキーに熱心なことに間違いない。

 

アドバイスもくれた。

 

コミュニケーションをとろうとしてくれた。

 

そのすべてを否定していたわけではない。

 

もちろん受け入れることもあった。

 

しかし、昨年までいたメンバーが大好きだったようで、まだそれを引きずっていたようだ。

 

なかなか褒めてくれない厳しさ、しかし選手のことを思ってくれている尊敬する山口さん。

 

いつも陽気で周りを盛り上げ、良い雰囲気を作ってくれる親友のファビオ。

 

逆に全力で衝突することが多かったのもファビオだと思っているようだ。

 

言葉を発しても、言葉を発さなくても、その姿勢でチームを引っ張る恩田さん。

 

「その男」にとって、そこにいるだけでモチベーションとなっていた選手、成瀬さん。

 

一緒にオリンピックに出場し、ワールドカップ転戦を数年一緒に続けているレンティングと宮沢はチームにいた。

 

もちろん二人との良い関係は築くことはできていたし、よいライバルながら信頼をしていた。

 

しかし、チームから抜けてしまった4人は「その男」がワールドカップ転戦を始めた当初からのメンバー。

 

やはり思い入れは強かったようだ。

 

「嘆いてもしかたない、変わらない。今年はこの体制で行くんだから、この環境で全力を尽くそう。」

 

何度も自分に言い聞かせたが、それでも気持ちを切り替えることができていなかったようだ。

 

色々な意味で本当に難しいシーズンだった。

 

「その男」にはこのシーズンで印象的なレースが2レースあるようだ。

 

まずは「全日本選手権」

 

世界選手権出場メンバーは、全日本選手権開催時にはすでに発表になっていた。

 

そこに「その男」の名前はあった。

そこに「ノブヒト」の名前はなかった。

 

二人は夏場からトレーニングをともにする、練習パートナーということを先に記載しておく。

さて、種目はスキーアスロン。

 

トップ集団は5~6人くらいだっただろうか?

 

スケーティングパートになってから一度、「その男」はわずかな距離だが仕掛けた。

 

短い時間ではあったものの、他の選手はついてこない。

 

ついて来られないと書いていいだろう。

 

やや離れたものの一度ペースを落とし、もう一度集団を形成することとなった。

 

十日町のコースは最後はほとんど平地か下りだ。

 

スケーティングパートは前半にある長い上りが終わってしまえば、あとはさほどきつくはない。

 

最終周回の中盤、やや上りが続くところで、「その男」がもう一度仕掛けたことをきっかけに集団はばらけた。

 

それに反応したのは、レンティングとノブヒトの二人だ。

 

仕掛けた際に、二人ともやや差は開いたものの、下りと平地パートを利用してノブヒトは「その男」に追いついた。

 

レンティングは6~7秒ほど後ろだっただろうか?

 

もう上りはない。

 

平地と下りだけだ。

 

スプリントを得意とするノブヒト。

 

いつも負けている「その男」

 

だが、勝てるという確信があった。

 

ここに至るまでの疲労感が違うのは、呼吸の粗さが物語っていた。

 

追いついたままに、前に出たノブヒト。

 

後ろからノブヒトを煽った。

 

ガンガン煽った。

 

数秒後ろからはレンティングが追ってきている。

 

レンティングには悪いが、ノブヒトに頑張ってほしかった。

 

世界選手権代表から漏れた、夏場からの練習パートナーのノブヒトに。

 

会場に入る下り。

 

レンティングは追いつききれていなかった。

 

ノブヒトとの一騎打ち。

 

インレーンから一気に抜かした。

 

苦手なスプリントで、ノブヒトを突き放してフィニッシュ。

 

ゴールラインを切ってから、すぐに止まり、すぐに振り返った。

 

すぐにノブヒトとハグをした。

 

「よくやった、よくやった。頑張った」

 

何度もノブヒトに言ったことを覚えているようだ。

 

練習パートナーとの全日本ワンツー。

 

こんなにうれしいことはあるだろうか?

 

レース後、ノブヒトとレンティングとダウンを一緒にしたが、その時に

 

「俺も世界選手権行きたいよ」

 

と、レンティングに言っていたノブヒトの言葉にすごく重みを感じた。

 

世界選手権でしっかり走ってこなければいけないなと、レース直後には気持ちを引き締めたようだ。

 

もう一つの印象的なレースは、「世界選手権」のようだ。

 

スウェーデンのファールンで行われた今大会。

 

前回大会同様に、レンティング、宮沢、そしてこの2年前の50㎞、新たな全日本チャンピオンとなった宇田だ。

 

宮沢、宇田はユニバーシアドに参加するため、全日本選手権には出場していなかった。

 

この大会に新たなワックスマンがチームに加わる。

 

憧れのライバル、成瀬さんだ。

 

ソチオリンピックで引退した成瀬さんだが、その後ジュニアチームのコーチとなり、この世界選手権にはワックスマンとしてチームに帯同した。

 

嬉しかった。

心強かった。

 

この大会が印象的なのは、レースが行われた当時のインパクトが強かったわけではない。

 

レースに関して最も強い思い出は、50㎞クラシカル。

 

結果ではなく、最後の直線に入る前の平地の雪のコンディションだ。

 

とんでもないザクザク雪。

 

まるで蟻地獄のようで、力を入れれば入れるほど足が埋まり、前に進まなった。

 

ほんの一か所だったが、そこだけ全く別物だったことは強く覚えている。

 

そのレースの結果は確か17位くらいだ。

 

では、何が印象的だったのか?

 

理由は後付けになるようだ。

 

不思議なことに6年の歳月を経た今となって、この世界選手権が印象的な大会となったようだ。

 

この世界選手権に初選出された「宇田」

 

彼の存在によってこの大会は印象的なレースとなったのだ。

 

「その男」のブログを読んでいる方は、宇田が2021年のオーベストドルフ世界選手権にも選出されたのはご存知だろう。

3大会振り、6年振りにだ。

 

ファールンの世界選手権では、彼と同部屋だった「その男」

今回のオーベストドルフの世界選手権でも、同様に宇田と同部屋だった「その男」

 

当時の思い出話を色々とした。

 

そのたびに、色々な記憶を呼び起こすこととなった。

 

オーベストドルフの世界選手権前、最後にリレーに出場したのはこのファールンでの世界選手権だ。

 

成瀬さんが抜けた穴を宇田が埋めた。

 

その宇田を、ワックスマンとしてチームにいた成瀬さんもサポートした。

 

その印象は強かった。

6年後、オーベストドルフ世界選手権代表選考会となる、十日町の全日本選手権の10㎞クラシカルマススタートで先陣を切ってコースを走った宇田。

 

後日書くようだが、「その男」はレース中に何度も宇田にお願いをして前に出てもらっていたようだ。

 

オーベストドルフ世界選手権代表を決めるきっかけの一人となる彼が、初めて出場した、一緒に出場した、一緒にリレーを走ったファールンの世界選手権を思い出すと感慨深くなったようだ。

 

気が付けば、印象的なレースの一つとなっていた。