その男⑤ | neppu.com

その男⑤

「このままではまずい」

 

 

 

 

スマホをいじりながらその男は思っていたようだ。

 

三日間の指定ホテルから昨日違うホテルへ移動した。

 

隔離生活に変わりはなく制限はあるが、部屋にしかいられない軟禁状態からは解放されたようだ。

 

多少の自由は得られた。

 

コンビニ、スーパーへの食事の買い出し。

 

窓を開けて外の空気を吸うことができるようになったことでさえも大きな変化に感じる。

 

多少の自由と同時に得たもの。

 

 

「グダグダ生活」

 

 

なぜかわからないが、軟禁状態だった昨日までのホテルのほうが、何かに時間を費やしていたように思える。

 

しかし、今朝は朝食が終わってからスマホをいじるグダグダした時間を過ごし続けた。

 

幸いなことに、これと決別するための一つの手段をその男は自分の経験から知っていた。

 

メガネをコンタクトレンズに変えた。

 

ステテコを脱ぎ、練習着のハーフパンツに履き替えた。

 

綿90%、ポリエステル10%の部屋着Tシャツを、ポリエステル100%の練習着Tシャツへと着替えた。

 

体に慣れ親しんだいつもの肌触りだ。

 

これによって何が起きているかって?

 

 

 

気づきませんか?

 

 

 

 

さっきまでグダグダスマホをいじっていたその男がパソコンに向かい、その男の過去をまた文章に書き起こし始めていることを。

 

その男にとって、「練習着」を纏うことは、「やる気」を纏うことに直結していることは、長年の経験から知っている。

 

動き始めるための大きなきっかけになるのだ。

 

 

 

 

その男の兄との最終決戦を終えた。

 

その後もう一人の敵との戦いにも変化があった。

 

 

「ヒロキ」

 

 

との戦いだ。

 

世代最強の彼。

 

中学生になっても、相変わらず勝つことができていなかった。

 

全道大会30位のその男。

 

 

ヒロキは確か25位くらいだったはず。

 

しかし、その差は確実に迫っていた。

 

タイムがそれを証明している。

 

全道大会が終わってから約一カ月後の地方大会。

 

再びヒロキと戦うことがあった。

 

その男の一つ後ろの15秒後に、全体の最後をスタートするのがヒロキだった。

 

その地方大会では学年ごとにカテゴリーが分かれていたが、中学生は全員同じ距離だったと追記しておかなければならない。

 

その頃には面識のあった二人。

 

スタート前にどんな会話をしていたかは覚えていないが、世間話の後にスタート。

 

15秒という短いタイム差でのスタートは、前後の選手とのタイム差は目視でわかる。

 

自信がなかったわけではないが、ヒロキが後ろからくると思うと、否が応でも後ろを何度も振り向いてしまう。

 

思ったよりも迫ってこない。

 

いや、むしろやや離れていないか?

 

その男は、昔から後半に向けてペースを上げていくのが得意だったようだ。

 

それを今でも持ち味にしているようだ。

 

距離を重ねていく毎に、ヒロキの姿が遠くなっていく。

 

 

「間違いない、自分がリードしている」

 

 

必死に腕を使い、足を動かし、心臓を追い込んだ。

 

ゴール。

 

その男がゴールしてから15秒後。

 

ヒロキはまだゴールラインを切っていなかった。

 

その男がゴールラインを切ってから15.1秒後

 

その男が人生で初めてヒロキに勝った瞬間であり、人生で初めて優勝した瞬間だ。

 

STARTのイエロー。

 

その男がレースで前日に塗ったグライダーワックスだ。

 

覚えているんだなぁ、今でも。

 

もう一つ覚えているのが

 

 

「いやぁだめだったよ、お腹が減って力が出なかった」

 

 

今だったら

 

 

「アンパンマンかよ!」

 

 

と突っ込みたくなるそんなセリフを、ヒロキはレース後に言ってきた。

 

彼の人柄の良さがにじみ出ているその表情は、どちらかというと食パンマンだったかな?

 

覚えてるんだよなぁ、その顔も、セリフも。

 

ここは特別な場所なんだろうか?

 

初めて出場して最下位をとった地方レース。

 

奇しくもその男が初めて優勝したそのレースも、同じ場所で開かれた地方レース。

 

小学校二年生から中学校一年生。

 

丸五年という月日を経て、地方大会最下位からスタートしたその男は、地方大会で優勝するまでに成長をした。

 

  

 

ヒロキとの戦いだけで一話使ってしまった・・・

 

これではいつまでたっても終わらないぞ・・・とその男は頭を抱えているようだ。

 

しかし、それだけその男にとって初優勝、ヒロキへの初勝利は特別だったのだ。