その男④
「こんなに東京の空気っておいしかったっけ?」
三日振りに吸う外の空気。
その男は学生時代、四年間東京に住んでいたが、あんなにもまずいと思っていた空気。
それさえもがおいしく感じるほど、三日間のホテル部屋生活は窮屈だったのだろう。
「出発のバスが出るので、チェックアウトをしてください」
と部屋に電話があり、うれしさのあまり急いでホテルの部屋を出た。
チェックアウトを済ませ、バスに乗りこみ出発。
外を眺めながら高まる気持ちを抑え、少し冷静になり始めた時に、その男はまずいことに気がついてしまった。
・・・ズボンのチャックが開いている・・・
チャックを閉める事すら忘れてしまうほど、久しぶりに外に出るのがうれしかったようだ。
一緒に乗った、知り合いの女の子二人に気が付かれていないことを切に願っている・・・
だが、隔離生活はまだ始まったばかりに過ぎない。
違うホテルに移動し、残りの11日間を過ごすこととなっている。
その男がスキーを始めるきっかけともなった存在の兄。
その村では、運動ができることで知られていた。
とにかく足が速かった。
運動会ではいつも一位。
小学校の短距離の記録は軒並みその男の兄がもっていた。
いくつかの記録はいまだに破られていないようで、その男が数年前に小学校に行ったときには変わらず掲載されていた。
中学校ではカテゴリー分けがないと前回書いたが、二学年上のその兄とは夏場でも戦うことがあった。
第一戦 運動会1500m。
その男と、その兄は同じ組(紅組、白組区分)だった。
短距離がめっぽう得意なその男の兄だったが、長距離もいける。
兄弟そろって長距離種目に選出された。
結果は、その男の兄の圧勝。
見事に離された。
しかし、その男は二位でゴールし、兄弟で一位、二位を取った。
第二戦 マラソン大会
おそらく距離は五㎞ほどだったような気がする。
単純な往復コース。
距離が長くなればなるほど、その男のほうに有利に働いたのだろう。
運動会とは違い大接戦となった。
学校のマラソン大会だったが、最終的には兄弟の争い。
ラストスパート。
その男が仕掛ける。
やや前に出た。
しかし
持っているスピードが全く別物だった。
一気にまくられ、差はわずかだったものの、タイム差以上の力の差を見せつけられる。
「余裕だったけどな」
と周りに話していたその男の兄だったが、必死に肩を揺らしながら息をしていた姿をその男は忘れられないようだ。
突き動かしていたのは、兄としてのプライドなのだろうか。
それとも、弟と同じように強さへの憧れ、負けることへの悔しさだろうか。
血がつながった兄弟、同じ気持ちを持っていたとしてもなんらおかしくない。
第三戦 全道スキー大会
本当であれば全道大会予選を第三戦に入れるべきだが、さほどストーリーがないため割愛させていただく。
全道大会予選はさほど記憶にないという理由もあるが。
全道中学スキー大会。
その男が、その男の兄と戦う最終レース。
その男の兄の引退レースということだ。
レース中に特にエピソードはない。
あるとすれば、ビデオカメラに向かってレース中にも関わらずピースを連発していたということだろう。
その男はどうやら目立ちたがり屋のようだ。
さて結果はというと
30位 その男
31位 その男の兄
タイム差は一秒なかったように思える。
ほんのわずかな差であるが、その男はその男の兄に勝った。
あの時の喜びは今でも覚えている。
その男の実家に並べて飾られている、その男とその男の兄のレース写真。
それを見るたびに、今でもやや気持ちが高ぶっているようだ。
仲がいいのか悪いのかわからないその兄弟。
会っても近況報告程度の会話しかしない。
東京に住むその男の兄だが、東京に行くことがあれば連絡をし、食事に行く。
さほど会話をすることなくひたすら食事をする。
ドライに解散する。
不思議な関係だ。
だからこそ面を向かって言いにくいので、その男はこの小説という場を借りて言いたいことがあるようだ。
「クロスカントリーを選んでくれてありがとう。おかげで自分もクロスカントリーと出会うことができている」
と。
見ているかもわからないこの小説で伝え、面と向かわないでいうなんて。
やっぱり卑怯者だよ、その男。