ショスタコ祭り(続)って言うよりパーヴォの父ネーヴェ・ヤルヴィ祭りかと・・
来月アタマに東京エムプラスに発注した次(チャイコフスキーバレエ音楽他)が到着するだろう―此処で全てホントに打ち止め!
さすがに精力的にセッション収録CD化されとるマーラー、ワーグナー、サン=サーンス他シベリウス、ドヴォルザーク、プロコフィエフに手をのばすことは無かろうが多大な出費を伴う蒐集に帰着。ブルックナー5番までカタログに載っとる!
シベリウスだけは宇野先生推し(これにはこれだけには1にも2にも宇野大先生に全面的同意)のEMIベルグルンド旧盤のみで他はまるで不要と私も思う!
ヤルヴィのマーラー解釈は定評があるようだが、シベリウス、ブルックナー、ブラームスとなると中々これは難しいものがあると思う。
どのような演者によってもいかなるアプローチに対応する楽曲の力をもつベートーヴェンとは訳が異なる。
それゆえネーメ・ヤルヴィのディスコグラフにベートーヴェン交響曲が1曲も無いのは残念だしトスカニーニ、ムラヴィンスキーと異なるアプローチで直線的にぶっ飛ばす第4、エロイカなり全曲残して欲しかった。(ネットに残されてる地方オケとの4番交響曲の一部がまことに興味深い)
これらをBGMにしてしょーもねー舛添の中古新書なんか読み散らかす
ソース焼きそばって
こーなると終末感すら漂ようが
パーヴォの方でない父ネーヴェ・ヤルヴィなればこその個人的には好まぬ冗長気味と私には感じられるショスタコ15番/7番≪レニングラード≫交響曲であっても―繰り返しの鑑賞に耐えられる。
この指揮者特質であるダレを寸分許さぬ速攻テンポ、打楽器のオーソリティーだからこその軽妙な音彩バランス感覚
バーンスタイン/シカゴやペトレンコではない
ショスタコ独特の打楽器パートの質感が心地良さに代わる
しかし曲による演奏燃焼度や緊張度の順列が生まれるのはしょうがない。12番『1917』をムラヴィンスキーと比べると8番でもそうなのだが譜面紙背に徹すムラヴィンに比べ音響打音の緩さが気になると言えば気になる。{オーマンディ程の緩さは論外としても)
激演中の激演として行き過ぎモスクワフィル/コンドラシンの8番もしくはバビヤールやソヴィエト文化省響/ロジェヴェンの超過激バビヤールの次点に位置するのはしょうがない。