お正月、ほぼ外に出ることなく
ひきこもって絵を描いています。
外に出たい欲求もないので快適です。
 
このところ、ここ30年間ほどの大きな「時間」の完了を
感じいるような時を過ごしています。
 
外に出る用事があり、ふらりと徒歩圏内の
「築地本願寺」へ初めてお参りさせてもらいました。
 
なんだか、建物が異国情緒にあふれて
お寺とは思えません。
中も教会に入ったような空気感。
 
本願寺と言えば親鸞聖人。
 
間を省略しますが、
わたしが最初に「歌(メッセージ)」を
受け取るようになったのは2003年でした。
 
その後、まさか今のような状態になるとは
夢にも思ってなかったのですが
2002年には幽体離脱するようになり、
今の片鱗が見え始めていたころ。
ただ、そのころは意味がわからなかったんです。 
 
1998年姉が旅立ち、
それから日々「死」について思いを寄せていました。
なぜ姉は亡くなったのか。
なぜ?あの死に方だったのか。
 
あらゆる本を読み
言葉のひとつひとつをつかみながら
 
その問いのまとめのように
2003年歌がメロディとともにやってきました。
 
◇◇◇
「問いかけ」
 
つまづいたら 寝ころべばいい
空の青さを知るだろう
 
雨に濡れたら 土になるといい
やがてお前の花を咲かす
 
おお、天龍に問う 水の行方を
 
眠れぬ夜は わたしを抱いて
詰まる想いを吐き出すといい
 
憎む心を憎んで止まぬ
お前の闇を抱きしめよう
 
おお、天龍に問う 闇の深さを
 
時が来たなら 生まれるがいい
迎える声を聞くだろう
 
時が来たなら 死に行くがいい
迎える声を聞くだろう
 
おお、天龍に問う 君の行方を
おお、天龍に問う 闇の深さを
おお、天龍に問う 水の行方を
 
 
◇◇◇
この歌がやってきたとき
わたしは親鸞聖人が見たという
「救世観音の夢告」を思い出しました。
 
救世観音の夢告については
調べてくださいませ。
 
わたしにこの歌をさずけたのは
救世観音(という名で呼ばれる存在)であると
その時、感じたのです。
 
「わたしを抱きなさい」
 
その時から徐々に、その言葉の慈悲の深さを
体感していきました。
 
そして、
人は、生まれても死んでも迎えられる。
それがどんな生まれ、死に方であっても。
 
すべてはOKなんだということ。
今この瞬間にパーフェクトであること。
 
そのうえで、求め、望み続けることの神秘。
 
救世観音は、聖徳太子と縁の深い観音様。
中学生の時から聖徳太子に興味を持ち、いろいろな本を読みました。
自分の部屋の天井には曼荼羅のポスターを飾っていた中学生でした。
 
そんなことを思い出していると
巨大な曼荼羅が届きました!
今このタイミングで贈り物としていただいたことを
深く感じ入っています。
 
 
そして、そんな新年のお参りをさせていただいて
義母が旅立った知らせを受けました。 
 
振り返れば、中学、高校生頃に始まった
いろいろなことが大きな時間の中で完了し、
このやぎ座新月は空っぽのはざまにいるような感覚です。
 
義母と出会ったのも高校生の時でした。
 
不思議な時間のはざまにいるような感じなのですが
きっと魂は知っているのです。
この先にどこへ向かうのか。
 
 

義母は夢で「しばらく留守に」
と言ってましたからきっとまた戻ってくるんですね。

おかあさん、行ってらっしゃい!