覚醒への道①はこちら
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姉の死をきっかけに
残りの時間を感じ始めたわたしは
一分一秒くつろぐことなく
ギター片手に歌を歌い、ライブに通った
年間200日ぐらいライブに関わっていた。

歌は独唱パンク系。
闇をえぐる歌を次々に作り、
歌う姿は外国人に「クレイジーガール」と呼ばれた。


その一方、身体と食が変化しはじめた。




具体的に言うと

まず、「身長が3センチ伸びた」こと。

荒井先生のボイストレーニングで骨格が整ったと理解。


次に「食」の変化。

まず、牛肉、牛乳が食べられなくなった。

とにかく匂いが気になること
触れると肌が赤くかゆくなること
食べる気持ちになれなくなった。

マクロビとかまったく知らなかったけど
自然と玄米菜食に移行していった。


スピリチュアル情報はまったく仕入れていなかったので
何かアレルギーにでもなったのかと思い

医者にいって胃カメラを飲んで検査をしたら

あっさり

「老化ですね」

と言われ、ガーン。(笑)


若いつもりでいたけど、身体は老化してるんだと理解。

ピロリ菌がいるとかで薬を飲む。

食べられないものは食べなくていいと思っていたし
老化なら仕方ないやと
あまり気にはしていなかった。



それから
幽体離脱が始まり
金粉噴出が始まった。
 
これは、覚醒にともなう現象というより
わたしの霊的なエネルギーの修正。

霊的な変化の現れは
特別視されがちだけど、
あくまでわたし個人の事例として記録しておきます。


当時、音楽活動、家事、子育て、フルタイムの仕事以外に
子育てに関わる役員の活動
音楽活動にともなう、1000人規模のイベントのプロデュース
ラジオ番組の制作、パーソナリティなど

残りの時間を意識し始めたわたしの生活は
あまりにも多忙だった。


幽体離脱に関しては
多忙すぎて、身体とたましいがバラバラになっているのだと
自己分析した。

幽体離脱は興味深く、
わたしは、自分の離脱現象を観察、研究し
どのようにすると離脱するのか、ふとんの位置、身体の位置など
パターンを研究し自分で離脱することができるようにもなった。

そして、離脱した世界では「心から思う」と
実現することを発見した。

例えば、壁抜け。
これもただ触っても壁は抜けられなかった。
 
壁の向こう側をイメージしたら
向こう側にいた。
 
いろいろ試してみた。
月にも行ってみた。

できないと思う心があると
とにかくできない。
 
いずれも「怖く」なるとひゅ~っと身体に戻った。
 
自分が「そうである」とイメージできたことは
すべてその世界で実現することができた。
 
楽しくなってしまい
夜な夜な離脱しているうちに
あるとき、自分の身体に戻ろうとしたら
きつく感じた。

もしかして、戻れなくなることもあるのではと感じ
それ以来、離脱はしていない。
その後、勝手に離脱することもなくなった。


金粉噴出も同時に起こっていた
肌が金ぴかになる何かの悪い病気かと思った。

病院に行くべきかどうかちょっと悩んだが
ネットで調べると霊的な現象だとわかったので
ほおって置くことにした。

そして、「虹」を見る時に
その虹を見ている他者のビジョンが見えるようになった。

これらの現象は
人に話すことはなく、自分の妄想の一種だという位置において
ほおっておいた。

子どもの頃から
霊的な現象は「ほおっておく」のが一番だと思っていた。

これは、今思うと正解。
覚醒における霊的な現象はそこにフォーカスすると
あらぬ方向へいき、スピ中毒になる。



わたしは、現実に目をむけるようにし
多忙な生活をやめることなく
ひたすらに走り続けた。

そのうちに、だんだんと何かが変わってきたことに
気付きはじめた。

その変わってきたことを
どのように言葉にしていいのかわからずにいた。


何かがつかめそうでつかめない。

そんな感じだった。



その答えを探しに

2004年2月、海外へバックパッカーひとり旅へ
出ることにした。


最初の旅はタイ。
バンコクからチェンマイ、山岳民族の村を訪れました。


バンコクでひとりの日本人女性Tatoo職人に出会う。
彼女は、海外を放浪しているとのことだった。
 
彼女にひとり旅の理由を聞かれた。

なんとなく感じていたことを話してみると
彼女は

「負けに来たのですね」と

私の話しを一言でまとめてくれた。


その通りだと感じた。

わたしは、気が強い。
でも、それは、弱さを隠す強さだと
自分の奥では感じていた。

その傲慢さをへしおって
自分の弱さを感じたい。
そう思うことすら傲慢だと今は理解できる。

これがなかなかどうして
負けられない。

乗り越えてしまおうとする
自分の人生への支配欲に辟易していた。

勝ちに行って勝ってくる
弱みを見せられない
弱さの上に築かれた
自分自身の支配の螺旋から降りたいと感じていた。

初めての海外の旅をひとりでいけば
自分の弱さと対峙できるのではないかと思った。


ところが
初めての海外ひとり旅は
驚くほど、心がくつろいでいた。

負けるという目標(笑)とは少しニュアンスは違うかもしれないけど
ひとりあることのくつろぎを感じた。

そこには弱いも強いもなく
ただわたしであることができた。


もともとただでさえ、走り気味だった人生が
姉を死をきっかけに1分1秒を惜しみ、さらに走るようになり
心が「くつろぐ」ということがなかったので
別の意味で新しい自分を発見したように感じた。


そこから、わたしの意識は、忙しい生活をやめることへ
シフトしていった。


特に忙しさの原因になっていた「音楽活動」は
自分のアイデンティティを証明する活動であって
ハートからのものではなかった
わかっちゃいるけどやめられない
そんな感じだった。

もっと純粋に音楽と接したい。
そう感じながらもずっとやめられずにいることに
自分を責める苦しさもあった。
 
わたしは、帰国してから
音楽イベントのプロデューサーを降りることを告げ
それまでの締めくくりのCDをつくり、
音楽活動を休止することを決意。

音楽の中にいると
どうしても自分を証明したい
認められたい自分がムクムクと出てくる。

そこから離れることにした。


そして、「くつろぎ」の中で
初心者になってひとつひとつ丁寧にやっていこうと
新しいことにひとつチャレンンジしてみることに。

それは、市民演劇への参加でした。

まったくの初心で参加する
稽古は新鮮でした。

わたしはそこで一役者に徹するだけでよく
自分を証明しようといなくてもいいありかた
自我を出さないありかたに
心地よさを感じていました。

稽古を毎日積み重ねていくうちに
だんだんと世界がきれいに観えるようになっていきました。

そして、演技の一瞬一瞬が
とてもリアルに感じ、
同じシーンも毎回新鮮な気持ちを感じ

2004年12月の本番では
今まで感じたことのない一体感と感動に包まれ

2月のタイでつかめなかったことを
つかみ始めた感覚がありました。


そのつかみ始めた感覚を確かめに
今度は、冬のモンゴル、ゴビ砂漠への旅へ。


モンゴルの旅で
徐々に目覚め始めていきます。


モンゴルの旅ぐらいまでは
ひとつひとつ確かめながら無理なく
ゆっくり奥深いところで目醒めがおこっていったような感じでした。


そのあとからです。
強烈な死のプロセスが始まったのは。


姉の死から
すでに6年が経ちました。


続く。