ロンドン五輪第16日の11日(日本時間12日午前)、ボクシング男子ミドル級決勝で村田諒太がフロレンティノ(ブラジル)を破り、ボクシングの日本勢では、1964年の東京大会バンタム級の桜井孝雄以来2人目となる金メダルを獲得した。

〔記事は以上です。Sourced by 朝日新聞News〕
凄いです


強豪ひしめくミドル級、大勢の世界チャンピオンを輩出している日本のプロボクシングでもミドル級の王者となったのは、あの竹原慎二ただ一人。
そのウエイトから世界中の強者が集まるミドル級、日本人は体格的にプロでも選手層が薄く、世界ランキングに入ることすら難しい。
ボクシングは体重によってプロが17種類、アマチュアが13種類の階級に分かれており、アマチュアボクシングのミドル級ウェイトは、69~75kgとなっている。

村田選手、プロ入りして世界チャンピオンを目指す可能性はあるのだろうか。
既に多数のジムから獲得を表明するなど、引っ張りだこ。
48年前の東京オリンピック金メダリスト桜井孝雄選手はプロ入りしましたが…
村田選手、今後の動向に目が離せません。
村田選手と桜井選手の略歴を下記に書きましたので是非ご覧ください。
村田選手の高校時代の監督、そして桜井孝雄氏、共にロンドンオリンピックでの村田選手の快挙を見ることができなかったのは残念です

■村田諒太郎略歴
南京都高等学校ボクシング部監督だった恩師、武元前川氏は2010年2月に急死。「先生の夢は五輪選手を育てたい」だった。
南京都高校で高校5冠を達成後、粟生隆寛に次ぐ2人目の6冠が懸かった国体を蹴って全日本選手権に出場するも、決勝で佐藤幸治に1回RSC負け。
東洋大へ進学し、2004年の全日本選手権で初優勝。2005年、ホーチミンでのアジア選手権で銅メダル。
2008年3月、東洋大卒業後は学校法人東洋大学に就職し、現在も東洋大学職員&東洋大学ボクシング部コーチ。
全日本選手権で2度の優勝をしながら、北京五輪の出場権を逃し、一度は引退。1年半後に復帰し、2009~2011年の全日本選手権で3連覇を果たした。
■桜井孝雄略歴
1941年生。千葉県佐原市(現・香取市)出身。佐原高校~中央大学卒業。東京オリンピックのバンタム級金メダリスト。プロ入り後はOBF東洋バンタム級王者。
卓越したセンスと技術を持ち、東京オリンピック金メダリストとして鳴り物入りでプロ入りしたが、ボクシングに対しクール過ぎる性格が災いし「安全運転」と称された消極的ボクシングを展開。当時のバンタム級がファイティング原田を始めとする強豪揃いであったことも影響し、世界王座に手が届くことはなかった。
1963年全日本アマチュアボクシング選手権大会および1964年東京オリンピックのバンタム級で金メダルを獲得。アマチュア戦績は155戦138勝13敗。
オリンピック前から、三迫ボクシングジムで練習をしていたが、当時のボクシング界はアマチュアとプロの交流がなく、桜井は「ばれたら代表からも外されていた」と後に語っている。プロボクシング界は桜井の争奪戦を展開したが、当初は「プロに行かず、大学に残る」と発表されていた。しかし、スポーツ紙が桜井の三迫ジム入りを1面に掲載すると大学側は激昂し、桜井はボクシング部から除籍されてOB会名簿にも載らなかった。また、プロ転向後はアマチュアボクシング界から裏切り者として扱われた上、ディフェンス重視のスタイルはプロで受け入れられることもなく、「しょせんアマ出身」と叩かれた。
1965年6月3日、三迫ジムよりプロデビュー。日本スーパーバンタム級6位のアトム畑井に判定勝ち。
1966年10月6日、ノンタイトル10回戦で、青木勝利に判定勝ち。
1968年7月2日、日本武道館で世界バンタム級王座に挑戦するも、ライオネル・ローズ(豪)に判定負け。
1969年5月23日、米国カリフォルニア州で行われたノンタイトル10回戦で、ルーベン・オリバレス(メキシコ)に6回KO負け。プロキャリア唯一の日本以外での試合となった。
1969年10月23日、OBF東洋バンタム級王座に挑戦。李元錫(韓国)に12回判定勝ちで王座獲得。
1970年11月28日、ジョー・マロンゾ(フィリピン)に12回判定勝ちで2度目の防衛に成功。
1971年6月、OBF東洋バンタム級王座を返上し現役引退。プロ戦績は32戦30勝(4KO)2敗。
その後、高田馬場で喫茶店経営、不動産会社勤務などプロボクシング界から離れていたが、1994年秋、広島アジア大会で中大ボクシング部の先輩と再会したことがきっかけで1996年春より東京都中央区築地のボクシングジム「ワンツースポーツクラブ」会長を務めていたが、2012年1月10日、食道がんのために死去。享年70歳。