これはなんの香りだ?
顔の回りに良い香りのする……花?
そっと触れてみれば微かに湿り気を帯びているし、鼻の近くに持っていけばそこから香りがする。
香りの原因はこの小さなものだろう。
そっと身体を起こそうとすると、布団の裾がくんっと引かれる。
そこにあるものがなにかを確かめようとして手を伸ばせば指にあたるのは健やかな寝息と共に感じる髪の毛。
潤か。
なんで、こんな絨毯の上で眠っているんだ?
それにこの花は……潤の仕業か。
何をしでかすかわからない子だと、伸ばした指で髪の毛を擽るけれど起きる気配がない。
声をかけるのは憚られるが、他の者に見つかって叱られるところも聴きたくはないな。
起こすか……。
けれどこの柔らかな時間をいま少し堪能していたい。
矛盾だな、俺にあり得なかった矛盾。
『ロボットのようだ』
というのが物心ついた時に父から聞いた言葉。
『ピアノが弾けなかったらこんな子産んだ意味がない。かわいいなんて一生思わないでしょうね』
乳母に言っていた母の言葉。
どちらも正しいと思う。
自分でも感情をどう表していいのかわからなかった。
笑いかけてもらえず、ただ与えられる楽器を手に音を鳴らし、間違えれば憤怒の顔で手を叩かれ、ため息をつかれる。
自我というものに目覚める前に、神は俺から光を奪った。
悲しいかな、その事がきっかけで自我が目覚め、自分というものを知った。
残されたこの手で、自分の居場所を得なければこの家で飼い殺しにされるだけ。
そして、俺はピアノを選んだ。
ピアノを弾いていて手を叩かれることはなかったことと、全ての音が異なるが、必ず叩いた鍵盤は寸部違わす同じ音を鳴らすから覚えやすかったこと。
ただそれだけだ。
猿真似、結構。
感情の起伏の無い俺には音に気持ちを込めることなどできやしない。
けれど……この子犬が来てからの俺は時に笑い時に胸を締め付けられる。
「潤」
起こさないように小さく呟けば、胸に暖かいものが宿る。
このまま、何時までもこんな日が続けばいい。
音を立てず笑うこの子を愛おしむことで、俺はやっと俺の場所を見つけたような気がするんだ。