Saishoku==彩色==

Saishoku==彩色==

ことばをさがして

 

なんとしても、その場で見たかった

やはり、その場で見ないと意味がなかった 来てよかった

 

二条城の太い梁や大木に囲まれた重厚な空間

薄暗い中、光によって表情が変わる金の色彩

 

重い空気と抜けのある空間

広い壁に存在感を放つ作品

 

唯一の被爆国として、今続いている戦争にきることがあるはず

そう訴えているように感じた

金の大麦畑はウクライナの象徴

黒ずんで、その輝くを失いつつあり、

床に置かれた本は、存在すると思っていた近代知性が本当にあったのか

という疑問に思えた

 

首と顔のないドレスを着た女性像

女性の無名性、負わされる運命

 

ここで見られてよかった

 

 

つくられたうつくしいものには、人間のかなしみやよろこびが、こめられている。

くるしみやいかりもこめられている。

 

うつくしいものは、いつまでも新しい。

何度みても、はじめてみたような気持になる。

うつくしいものは、みるたびによみがえる。

 

つくられたところや時代によって、たがいにちがっていながら、

うつくしいものには、そのちがいをこえて、生き続けてゆく力がある。

うつくしいものは、遠くはなれた人間の、心を結びつける。

 

 

子どもの美術の教科書の最初のページにあった、谷川俊太郎さんのことば

     「みるたびによみがえり、何度みても、はじめてみたような気持になる」

 

見たことのある作品と再び会うことが増え、全く違う印象をもつことも

自分の記憶のあいまいさかとおもったけど、それは「うつくしいもの」だからなのだ

 

うつくしいは、きれいで整った、という意味ではない

人間の普遍的ななにかを内包した、形を持たない、何かなのだ

私たちは見ている、と思っていても、内包された一部を見せられているだけで、

すべてを見ることは到底できない

 

うつくしい をみくびっていた

 

 

快晴でもピリッとした寒さの箱根

強羅はスーツケールが溢れていた 見慣れてはきたが既視感はない光景

 

ポーラ美術館は日差しを含んで発光しているようで息をのんだ

フロントの案内係が3名もいて丁寧に案内してくれる

 

好きな画家の好きな絵がたくさんあり、

若いアーティストの作品もよかった

 

何が一番よかったか、と考えた時、何もでてこなかった

良い時間を過ごした満足感はあるのに

 

癖のない、心地よい、作品ばかりだからだった

好きだけど印象には残らない 

 

観光地でふらっと訪れてよい時間が過ごせる

そんな美術館だと思った

 

 

 

作品を静かに鑑賞したい

それが叶わないことはわかっていたが、やはり行くことにした

坂本龍一展

 

朝一番に行き、チケットがあっても多様な年代の人と列に並ぶ

 

東北で津波にのまれたピアノ

上流から急におちぶれた悲哀のある存在感

おちぶれてもここにいる、と主張しているようだった

 

見上げると塵が舞う映像

ピアノの上に四角く切り取られた画像が流れる

 

ピアノや、津波にのまれた人が最後にみた光

塵が舞う水面

それを見ながら沈んでいく体

助からない、と確信した静けさ

 

見たわけでも聞いたわけでもないのに、きっとそうだ、という気持ちが溢れた

せめて綺麗な光であったことを祈りたい

 

 

こんなに遠かったかな

佐倉の駅からバスに乗って、DIC川村記念美術館への道

2度目の来館だが、最初の記憶は薄い

 

閉館前に、ロスコを見たい

結局2度しかいかなかったが、ここにくればロスコルームがある、

と思えるだけで支えになっていた

頻繁に訪れることのできる距離ではなかった

 

混雑は覚悟していたが、ちょっと寄ってみた、という感じの方が多い印象

長くとどまる人は少ないようだ

 

通路の奥にあったロスコルーム

照度を下げた部屋に入る

前回は明るい部屋にあったような 記憶なんてあてにならない

 

四角く広げられた赤 前回は子宮の赤に溺れる気分だった

レンガに少し赤を加えたような四角の上に

黒で2つの四角が描かれた絵を見た時、涙があふれた

ガザの人の心象風景に見えた

希望を塗りつぶされて、何も見えない窓

黒い枠からどす黒い赤しか見えない窓

どこにも希望が見えなかった

 

ロスコルームが、ロスコルームとして残されること

それが今の一番の願い

 

 

「おしゃれとはコミュニケーションあってこそのものなのだと実感した」

妹たちへの贈り物 (集英社文庫)




こちらのエッセイを読み返し、深く共感した言葉
(もう売ってないんですね・・・図書館で借りました)
バーレーンに移住されて、閉じた生活をした時に
光野さんが感じたこと

私も1歳前の息子を連れてオランダにいった時
同じことを痛感していた
社会的な自分が不要で
90%ぐらいが母であることを必要とされる生活

汚されても良くて、動きやすい服
が基本的には3枚あれば十分だった
洗濯して乾いたものを着ていた

服を買いたい、と思ってでかけても
サイズも合わないし、
あえて買いたいと思う服もなく
買う必要もなかった

”この服を着ていく場所”
”これを着て会いたい人”
それがないとおしゃれはいらなくなる

生まれて初めて、購買意欲がなかった

同じお母さんでも
普段着にさらっとストールをまいたり
アクセサリーをしている人もいた
「立派だな」と心底思った

化粧もままならない自分は
ペディキュアなんて塗るという発想もなく、
初めて赤いペディキュアをしているママと会った時は
いろんな意味で「はっ」とした

でも、私には無理だとわかっていた
まさに髪を振り乱して
子供と格闘した
おしゃれと一番遠い生活だった

おしゃれなママが増えている
小さい子を連れてもきちんとおしゃれして、
コーディネートして
すごいな、素敵だな、と思う

でも自分には無理と決めたことで
結構楽になった

そして、社会復帰する時
全然買い足されていない服と向かい合い
限定されたアイテムで
どう着るかを真剣に考えた

初めて、”コーディネート”した気がした
保留期間も悪くなかったかも
Boiled frog 症候群
熱湯だと飛び出すが、
じわじわ温度があがる水の中にいると
暑さのために死んでしまうかえる
辺見庸さんの本にあった

じわじわ進むと
気づかぬが、気付いた時には身動きがとれない

じわじわいろんなことが
身の回りで進んでいる気がするが
その正体がきちんとつかめず

情報があふれているけど
正体をつかむための情報を
見つけられない
もどかしい

何かを考えるときに
何を読んで、誰を基準に考えたらいいのか
わからなくなった

嗅覚が衰えたのか、
「何か」をしてないから
なにもえられないのか

何かをつかめた気がした時に
身動きがとれなくなっている
そんな怖さを感じる
チームラボの作品を観たのは、
2005年のスヌーピーライフデザイン展
あまり期待せずに見に行った展示だったが、
水墨画風の作品に足が止まる

動きの繊細さ、
水墨画の世界観を壊していないことに驚く
「チームラボ」を記憶

最近、社長の猪子さんを良く見るが、
ものすごく繊細な作品を生み出す
一流のアーティストだなぁと感じる
経営者じゃなくて、芸術家

デジタルは、日本画と相性がよいのか
いずれも平面
そして、繊細
デジタルであれだけ繊細な表現が可能だとは思わなかった


ただ、水彩画とデジタルだとちょっと違う気もする
日本画の表現する静けさをデジタルは表現しうるのか
ネイティブではないけど
きれいな発音の英語が耳に残った

何かを伝えようとして
英語を習得し、
言葉の力、大切さをかみしめていたんだろう

その何より大事だった言葉で
最後に伝えたは、不本意な言葉だった
その気持ちは察するにあまりある

伝えることに懸命に生きた人が
最後に自分の言葉を伝えられなかった無念

無念



フラワーアーティスト 東信さん
コレット@パリに飾ったクリスマスディスプレイを見てから
気になる方だった
が、歳が近いことを発見

久しぶりに作品を見た
西洋的な面を全面に押し出した
濃密な、魔性をもつヨーロッパの森を想起させる作品
重厚感のある色使い

一方で
盆栽や球根を根からディスプレイする空間感覚は
和的

それぞれの要素の本質に近いものをあわせもち、
それをストレートに提示してくれる気がする

好き、嫌いというより
魅かれる、気になる、引き込まれる

そんな作品