平和と幸せを祈ろう!

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平和と幸せとは
暇すぎて国語辞典を通読しようかと――
 
本題
 
誰からも必要とされていない感覚に近い感覚を身にしみて思う。
そんな訳でもない、そんな事もない、と色々な周囲また自分の中の自分も、言ってくれる(言ってくださるぐらいの感覚である)が、当たり前だが他人と本人の感覚は別。人間ってそんなもの、そういった声をかけられた際にはちゃんと強がる、という事を覚えてしまったので、自分でもよくわからない。声では強がっても涙が出てくることもある。別に気にしていないよ~と言葉で繕っていても中は憔悴している、している。と言い切っていいものか、と――は如何なものか、程度の疑問は抱きつつ書いている。
言葉で繕えるのはあくまでも外装であり、思考と感情が内面としてちなみに外装の対義語は内装なので内面ではない。こんな事を書いてしまうあたりも、あまりにも精神が疲れているんだな。とわかる。
友人と話したり家族と話すものの、この感覚を癒やしてくれるモノというよりは存在、は確かにそこには存在しているが、存在していない。ある種シュレディンガーの猫の様な状態で。自分という人間に観測されるのかされないのか、といった状態を常に維持している。観測したくないわけではない。が、観測できない。そもそも観測とは。
 
何者かになれるのは何者かになる覚悟のあるやつだけだ。
 
とはよく言ったもので。はてさて、私は何者になろうか、なんて意識をしてただふらふらと、日々のらりくらり、思考と遊んでいるような状態だと、何者にもなれないし、誰からも必要とされていない。人間とは、人生とは不思議なもので。――したくないときほど――出来る環境にあり、――したいときほど、――出来ない環境にある。これが運命というものだ、と言われれば運命論なんてクソ喰らえだ、と言わんばかりに投げ出してみたいところだが、それもまた運命と言われるので、なんだか悔しくて何も出来ずにいる。
 
抽象的に書きすぎて何のことかわからないと思う、この日記が公開されるかされないかは観測されるまでわからない、みたいな。