3月11日、と聞いて、我々の世代でひっかからない人はあまりいないのかなと思いますが、あれから13年も経ちました。

当時はまだ卒後数年のペーペーでしたが、大学の研修を終え、地域の中核病院に勤務していました。

午後、病棟の患者さんを一通り回診して、ナースステーションにいてたら、なんだかふわふわと眩暈のような感覚が。

と、同時に周りの救急カードやらが動き出し、物が落ちて、アラームも鳴って、、ってその時点でやっと、地震だ!って気づきました。

真っ先にNICUで人工呼吸器がついてる赤ちゃんのところに確認しに行って、そのあとICUにも行って、停電もなくひとまずホッとしたのを覚えています。

そのまま病棟にあるテレビに目をやると、濁流が街を飲み込んでいる光景が次々と映し出され、何が起こったのかも全然わからず、ただ、歴史に残る大変なことが今まさに起こってるのだという実感だけはありました。桑田さんのTSUNAMIはよく歌ってたけど、まさにそれが津波、ということを認識できたのはしばらく後のことでした。

それからは病院も混乱状態で、物品が散乱してたり、一部壊れたりしてるところを確認しつつ、幸いにも被害はほとんどありませんでした。そして、しばらく経ってから、被災地へのDMATとしての支援の募集がありました。小児科は少し経ってから要請があったように思います。行きたい気持ちはありましたが、当時妊活中でもあったので、原発云々でまだ被害状況がはっきりしないところへの派遣は無理と判断し、留守を守る選択をしました。


このお正月、家でテレビを見ていたら地震が起こりました。すぐに中継がつながり、本震の際に崩れて土煙をあげる能登の町の映像ありました。今回は津波ってすぐわかりました。DMATは募集されたけど、今回は家族がたくさん増えて、また私は行くという選択はできませんでした。少しでも力になれることがあったら、という気持ちもありながら、家族のことを全部放っていくことはできませんでした。


次の地震。いつになるかわからないけど、必ずどこかで起こること。もし、もしも、子供たちの手が離れていて、私にもまだ体力が残っていて、人の役に立てる能力が残っていたなら、次こそは行けるだろうか。そんなことを考えてしまいました。



すずめの戸締り。

新海監督の作品は全部見ていますが、天気の子の結末より、こっちの方が断然好き。震災の直前のシーンではボロ泣きしちゃう。

行ってきます、って言って、そのまま帰って来れなかった、会えなかった家族たちを思うと、毎日の日常のありがたさを痛感します。

亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。