前回の続きです。
インドのお坊さんナーガセーナは、物質的なものには本質が無いと証明しましたが、概念・コンセプトに対してはしていない。
「ペン」みたいに目に見えて、手に取ったり、味見できるような「物質」とお釈迦さまの「教え」みたいに目に見えなくて、触れもできなく、味見できない「概念」は違うのです。
「物質」には本質がなくても、「概念」には本質があるのではないか?これがテーラヴァーダ仏教(長老派・いわゆる小乗仏教)と大乗仏教が理論の上で分かれるところです。
両者に共通する点は「物質」には本質が無いと思っているところです。
でも大乗仏教は「概念」に本質が無いと言い切る。つまりこれはお釈迦さまの教えである「諸行無常」という「概念」さえも本質が無いということになってしまう。これは怖い。
なぜならお釈迦さまの教えさえも「無常」にしたら(本質が無いと言ったら)仏教は無くなってしまう可能性があると考えるからです。
次回はこの事態にどう対応したかです。
インドのお坊さんナーガセーナは、物質的なものには本質が無いと証明しましたが、概念・コンセプトに対してはしていない。
「ペン」みたいに目に見えて、手に取ったり、味見できるような「物質」とお釈迦さまの「教え」みたいに目に見えなくて、触れもできなく、味見できない「概念」は違うのです。
「物質」には本質がなくても、「概念」には本質があるのではないか?これがテーラヴァーダ仏教(長老派・いわゆる小乗仏教)と大乗仏教が理論の上で分かれるところです。
両者に共通する点は「物質」には本質が無いと思っているところです。
でも大乗仏教は「概念」に本質が無いと言い切る。つまりこれはお釈迦さまの教えである「諸行無常」という「概念」さえも本質が無いということになってしまう。これは怖い。
なぜならお釈迦さまの教えさえも「無常」にしたら(本質が無いと言ったら)仏教は無くなってしまう可能性があると考えるからです。
次回はこの事態にどう対応したかです。