ж 6 ж 急行「たてしな51号」-昭和49年(3)
今にして考えてみればぱっと見ただけでそれが修学旅行用電車であると解ったのは不思議なことである。
現在では修学旅行にはバスもしくは新幹線や寝台列車、更には飛行機まで使う時代である。特に小学生は学校から目的地までバスに詰め込んで運んでしまった方が、何回もの乗換で行方不明になってしまう危険や他の乗客に迷惑を及ぼすことが少ない。しかし、私の頃は高速道路の不備もあったが、その年の秋に行った日光への修学旅行では、東急電鉄の宮前平駅に集合し、溝の口で乗り換えて川崎まで一般客と一緒の電車。川崎からは修学旅行用電車で日光まで、であった。
その修学旅行列車の時刻は定かではないが、ずいぶんと早い時間に集合して日光には昼前に着いた。その辺から探ってみると東北本線に大宮9:16発で宇都宮には10:33に着く土日運転の黒磯行き臨時急行「なすの51号」というのがあり、平日は恐らくそのダイヤを利用して走っていたのではないだろうか。よって、川崎発は8:00ごろ、日光へは11:30ごろの到着であったのであろう。途中上野と大宮に停車したのは覚えている。その他は当然宇都宮とたぶん東京も停まったのであろう。もちろんドア扱いは無い。
いづれにせよ川崎を8:00ごろの出発とあればまさに通勤時間真っ只中である。その為旅行前には駅や車内でのマナーについてとくとくと教えられ、宮脇氏の著書にあるように軍事教練ではないが、校庭で乗車の練習も行われた。
川崎までの東急と南武線は通勤型電車である。だから数多くのドアからある程度分散してわーっと乗ってしまえば良い。溝の口の下車は「降りるぞー」の掛け声と共にドヤドヤと降りる。即座に人数確認。その点川崎駅は終着駅なので楽だ。
問題となるのは川崎駅乗車時である。当時東海道本線は横須賀線が分離されておらずダイヤがいっぱいいっぱいで狭いホームにはひっきりなしに電車が到着しては大勢の通勤客を吐き出していた。だから専用電車も停車時間はいくらも取れない。しかもドアの数は1両に2ヶ所で幅も狭いと来ている。もたもたしていればダイヤの乱れは必至で国鉄としてもそれだけは絶対に避けたいところだ。国鉄には内部だけに通用する隠語があったが、乗客にまつわるものはこの修学旅行用電車の「ジャリ電」だけだったという。このあたりからも無理な時間に割り込んできて遅れの出やすいこの列車はかなり厄介な存在だったのであろうと考えられる。もしかすると乗車訓練の要請を各学校に出していたのかもしれない。
川崎駅に着いた生徒たちはいったんホーム上コンコースに待機させられた。コンコースと表現したが実のところは改札口への連絡橋である。記憶があやふやで申し訳無いが、当時の川崎駅はまだ橋上駅にはなっておらず、改札口はそのコンコースを南へ行き、階段を降りたところにあった。その先には駅前広場を横断する地下道の入り口があり、その京浜急行の線路との間の駅前広場からは各方面へのバスがひっきりなしに発着していた。京急川崎駅は広場の東側の少し離れたところ。その反対側の高架下にはかつて市電の停留所があった。北側はすぐに大きな工場で、南武線のホームの途中からその工場へと引込み線が分かれていて、まさに工場地帯の為の駅という感じであった。
だから朝晩、特に朝は通勤客でいっぱいである。その大人数をさばく為コンコースや地下道はずいぶんと幅の広いものであった。その広さを利用して生徒たちの待機場所とされたのだが、そもそもが通勤客の為のスペースなのだからずいぶんと迷惑なことであっだろう。ちなみに昼間ともなればこのスペースがもったいないくらいで、薄暗い地下道を通るのは駅前のさいかやデパートへの買い物客ぐらい。壁際には軍服に包帯姿の傷痍軍人がアコーディオンを弾いていたりして、その姿に興味と恐怖を覚えた。
発車時刻が近づくといっせいにホームへと移動した。おそらく乗客の切れ目を狙って駅員の誘導で教師の吹く笛の音が鳴り響く中の移動であったのだろうが舞い上がっていた私達にはワーッと移動して気づいたら電車の中、という状態であった。
車内は向かい合わせのボックス席で片側は普通に4人掛けであったがもう片方は6人掛けとなっていた。網棚は窓上ではなく背もたれの上に車両と直角にあり、座席の間には大きくテーブルが張り出していてとても狭苦しく感じた。6人掛けの方ではそのテーブルに大きな荷物が引っ掛かるなどしてスムーズに着席することができなかった。靴を脱いで座席に乗り荷物を網棚に乗せようとする子、その子のまたの下をくぐって奥の席に入ろうとする子などと混乱を極め、結局「とにかく乗ってしまえ!!」となり乗車訓練があまり活かされず、車内が落ち着いたのは発車してからずいぶん経ってのことであった。
車窓風景はよく覚えていない。と言うよりおそらく外など見ていなかったのであろう。あっという間に日光に着いたような気がする。テーブルが空間の大部分を占めていた為窮屈だったという印象だけは強く残っているが、おやつを食べたりトランプに興じたりするには大変便利であった。ただし子供には少々高い位置であった。夜行列車にこのテーブルが付いていれば会議中もしくは授業中に居眠りしているような感覚でよく眠れたかもしれない。もっとも、みんながみんなテーブルに突っ伏しているしいう風景はかなり異様なものとなったであろう。実際に1970年の時刻表には東海道本線の末尾に品川、東京発の6本の修学旅行用電車の時刻が載っていて、そのうちの3本は昼行で京都、大垣行き、あとの3本が夜行列車で明石、下関行きである。それぞれに「ひので」「わかくさ」「こまどり」「きぼう」「わこうど」「わかば」と列車名まで記されており、「わこうど」は東京を20:55に出発して下関に翌日15:35に着くというものであった。1974年の時刻表にも「わこうど」だけが載っているが、このような専用列車の時刻がなぜ時刻表に載っていたのであろうか。
日光駅に到着した後はバスで奥日光へと向かい、竜頭の滝、中禅寺湖、華厳の滝、と廻って日光市内の宿に泊まり、翌日は東照宮を見学して昼食の後専用電車で帰途、というさらりとしたもので、栃木県出身の両親に言わせれば「遠足コース」との事であった。当人たちの修学旅行は鎌倉、江ノ島で、くしくも一昨年前息子が向かった修学旅行も鎌倉、江ノ島で私に言わせれば「遠足コース」であるが、両親は「60年経っても変わらないのだな」と懐かしがっていた。ただし八景島がプラスされてる。
日光からの帰途、友人の1人が熱を出してしまった。彼は狭い座席でぐったりとしていたが、この電車にはこの様な事態に備えて各車両の1箇所に座席を引き出すと簡易寝台になる所があった。しかし、満席だった為か知らなかったのかでそれが使われる事は無かった。
さて、話を八王子に戻そう。
そんな修学旅行用電車で仕立てられた「たてしな51号」であったが、車内のそれは修学旅行用ではなく、普通の急行電車と同じであった。
修学旅行用電車には作られた時代によって仕様が違っていて、私が修学旅行で乗ったのは最初のタイプであった。この電車はまさに修学旅行専用仕様になっていて、修学旅行の無い時期、特に繁忙期に車庫で昼寝をするしかないもったいない電車であった。子供ですら窮屈だったのに一般客を乗せたら普通列車であっても苦情が来たであろう。そこで、国鉄はそのどちらにも使える電車を作った。洗面所と給水タンクを増設してテーブルは着脱式にした基本的には急行型電車で色だけが修学旅行電車である。先の「わこうど」は高校生を対象とした列車でこの車両が使われていた。そもそも、いくら昔の日本人の体格が小さかったとはいえ高校生にお子様用電車は無理な話である。
「たてしな51号」もこの車両であったが、修学旅行用電車にそんな種類があることを知らなかった私はおおいに驚いた。
更に驚いたことにこの電車は先ほどの「あずさ」と違って比較的空いていたのである。ばらばらではあったが全員が座ることが出来た。ついさっきまでの意気消沈から180度の気分好転である。
座ったのは通路側であったが、空いているのでどちらの車窓もよく見える。誰かに臨時列車は空いているという知識が有ったのか偶然なのかどうか知らないが良くぞこの列車を選んでくれたものである。おそらくこの時の私の顔はニコニコ状態であったであろう。
だが、やはりおそらくでは有るが、すぐにその顔はポカンに変わった事と思われる。発車していくらも経たないうちに車窓は家並みからいきなり山になってしまったからである。しかも、その山は自分の心の中に有る山とはまったく違うものであった。
私の住まいは谷のどんずまりの様な所であった。だから3方を山に囲まれていて、「今日は西の山で遊ぼう」などと言っていた。行けば頂上で手を振っている友達が見える。そこでがさがさと草を掻き分け潅木の根を踏んでいけばすぐにポカッと上に有る団地の庭に顔を出す。その様な物が私にとっては山だったのである。崖をダンボールを尻に敷いて滑り降りる、降りたら簡単によじ登っていける。これが山であった。多摩丘陵が山だったのである。頂上に登ればスモッグの向こうに東京タワーが霞んでいる。なんとここらは自然が豊かなのだろう。(田舎なんだろう。)と思っていた。
ところが、今目の前に有るものは何なのだろう。席が通路側というせいもあったが、頂上が見えない、谷底も見えない。
いきなり強すぎる印象を受けてしまったせいかその後の風景の記憶がない。長いトンネルや発電所への導水管の異様な姿だけが思い出される。
列車が終点の上諏訪に着いたときにはかなり空いていた。おそらく小淵沢あたりで大量下車があったのであろう。そこからバスで白樺湖を経由して一山越えた宿泊地に着いた。
そこは貸し別荘地で点在する別荘を結ぶ未舗装の道の脇には自宅周辺で普通に見られるU字溝があったが、それにはどぶつき物のヘドロや臭いは無く、透き通った水が細く流れていた。それを見て私は
「うわー、きれいな水だ」
と叫んだ。すると母が
「都会の子はかわいそうだね」
とぽつりと言った。
この年、運輸政策審議会の国鉄地方交通問題小委員会より赤字ローカル線の民営移管などの合理化案が出された。
--第32号(平成19年4月1日)--
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