上矢印

この記事のおまけ的な感想と記録です。
 

 

ほとんど読んでないけど眺めて面白かった本

 

坪内逍遥訳『十二夜』(早稲田大学出版部)

QuizKnockの動画でしか見たことのなかった「沙翁」の文字が実際に本に印刷されていてちょっと興奮。

 
 
名古屋市の星野書店は設立が大正8年。名古屋市内に現存するもっとも古い書店のひとつとのこと。
 
 
表紙
 
坪内逍遥は明治時代、日本に初めて本格的にシェイクスピア作品を紹介し、翻訳した人物。
『十二夜』が刊行されたのは大正10年(1921年)。旧かな・旧字体で書かれており、慣れない言い回しも多くなかなか読み進められず、早々に読むのを断念した。無念。
もう少し慣れれば本編は読めるかも知れないけれど(基本、会話なので)、いちばん読んでみたい巻頭の緒言が文語体でキツイ。どこかに書き下した文章がないものか。いっそのこと生成AIに発注してみる?
 

 

 

福田恆存訳『十二夜』
シェイクスピア全集補(新潮社/昭和47年)
 

旧かな・旧漢字ではあるけれど、逍遥訳よりははるかに読みやすい。

前半が翻訳本文、後半には解題、批評集、上演史、舞台写真が収録されている。

ちなみに、「舞台写真」は「舞臺寫眞」と表記されていて、「ぶたいしゃしん」であると理解するまで時間がかかった。

いや、時間がかかるのは「舞臺寫眞」に限らず、全編を通じてなのだけれど。

同じ日本語なのにね…とほほ。

 

批評集は、サミュエル・ジョンソンら文筆家による『十二夜』評がまとめられている(福田逸抄訳)。

上演史も同じく福田逸によるもの。

 

舞台写真は1953~1954年オールド・ヴィック劇団による公演から10枚。

クレア・ブルーム演じるシザーリオが中性的で美しい。やはり、男装の麗人には胸をときめかせる何かがある。

シェイクスピア時代のヴァイオラ役は少年が演じていて、少年が女性を演じながら男の姿をして男性に恋をするわけだから、これも倒錯的。場合によっては滑稽か。

 

解題(あとがきのような部分)の中で興味深かったのが、しばしば議論の的になる“歌わないヴァイオラ”に関する考察だ。

 

ヴァイオラは、オーシーノ公爵の小姓に推薦してほしいと頼む場面で、こう言っている。

 

私、唄も歌えるし、色々音楽のお話相手にもなれるし、とにかく十分お役に立てるでしょう。

 

(第一幕第二場/現代かな・漢字に直して引用)

 

これを聞いた観客の多くは、「あ、ヴァイオラが歌う場面があるのかな?」と思うだろう。実際、私はそう思った。

そして、第二幕第四場は絶好のタイミングだ。

 

オーシーノ公爵はヴァイオラ(ヴィオラ)に向かって言う。

 

何か唄を聴かせてくれ……それ、あのーー(楽士達登場)早くから、よく来てくれた……セザーリオー、それ、あの唄がいい、ゆうべ聴かせてくれた古風な昔の唄だ、どうやらあの唄のお陰でこの胸の結ぼれも大分解きほごされた、例の陽気な早調子の、言葉に技巧を凝したやつよりずっといい。さあ、頼む、一節だけでも。

 

恋する相手にこう望まれてヴァイオラが歌えば、とてもドラマチックだろう。でも、彼女は歌わない。

歌うのは、道化のフェステ(フェスティ)である。

この不自然な流れについて、福田恆存は解題で次のように述べている。

 

これはどう考えてもおかしい。この矛盾にひとつの解釈を与えたのはリチモンド・ノーブルという批評家である。詰り、この作品が最初に書かれた頃には、唄の上手な少年の役者がいて、それがヴィオラを演じ、実際に唄も歌ったに相違ないのだが、その少年役者が後に声変りしてしまったか、劇団を止めてしまったか、いづれにせよ、ヴィオラに唄を歌わせることができなくなってしまった、一方、道化のフェスティを演ずるアーミンという役者が唄の点でも評判になって来たので、ヴィオラの歌う筈の唄をフェスティに与え、新たにフェスティの為に唄を付け加えたりしたのであろうというのである。

 

非常に腑に落ちる推論であった。

 

声変りで女性を演じることができなくなる、というのが、当時の現場のトラブルとしていかにもあり得そう。

シェイクスピアや劇団員が台本を練り直す様子を思い浮かべると、舞台裏の息づかいまで伝わってくる気がする。当時の舞台が現実のものであったと感じられて、とてもわくわくした。

 

 

 

おわり。

お読みいただきありがとうございました!