閑話休題㉘

 

 今回は、そもそも「お稲荷様とは?」ということを考えてみたいと思います。

 

 参考にしたのは

 

 『日本民族大辞典上』.(1999).吉川弘文館.

   『日本民族大辞典下』.(2000).吉川弘文館.

    梶島孝雄.(2002).『日本動物史』.八坂書房.

 

 以上の3冊です。

 

 

 まず『日本民族大辞典上』では、「稲荷信仰」を以下のように説明しています。

 

『山城国風土記』逸文には、稲荷神は、711年2月7日初午に稲荷山三ケ峰に鎮座したとある。稲荷神は稲を象徴する穀霊神・農耕神・であり、もとは「稲成り」の意味であったが、のちに稲を荷う神像の姿から「稲荷」の字があてられるようになったとされる。(中略)商工業が発達するにつれて、稲荷神の神観念が穀霊神から生業守護神・医薬の神・福神などへ変貌し、分霊がさまざまな祈願目的によって全国各地へ勧請された。(中略)祭祀形態をもとに分類すると神道的稲荷・仏教的稲荷・民俗的稲荷の三つに分けることができる。

 

 なるほど。伏見稲荷大社を中心とするのが神道的稲荷信仰ですが、ダキニ天だと仏教的稲荷信仰になり、民俗的稲荷信仰となると屋敷稲荷になるのでしょうか。この屋敷稲荷ですが、東日本の農村に多いとも記述してありました。

 また、渡来人である秦氏が京都を中心に勢力を拡大すると同時に稲荷信仰も広がっていたとも書かれていました。

 

 なるほど。私の完全なる勉強不足でしたが、こんなに面白い話があるなんて知りませんでした。

 

 また、昔は、狐が出没するなんて珍しくもなかったのでしょう。何しろ皇居にも出るくらいですから。狐はそこら中にいた、今よりもずっと身近な動物だったのでしょう。

 

 「狐」に関する記述は以下の通りです。

 

狐は古代以来、特殊な能力を持つ動物と見なされてきた。『日本書紀』においてすでに、白狐の出現は瑞兆と判断され、『日本霊異記』には、人と狐の婚姻譚が収められている。(中略)いずれも中国における狐観の影響のもとに成立したと推定されるが、日本土着の要素を完全に否定することはできない。平安時代末には、霊力を持つ狐が神または神使と認識される例も現れた。(中略)京都周辺におけるこの種の狐信仰が伏見の稲荷と結びついたのは、中世に入ってからのことであろう。『稲荷大明神流記』には、京都船岡山の狐一家が稲荷山に入り、稲荷の眷属になった、という挿話が書かれている。そののち稲荷の立場から狐観が整理され、この動物は神狐と野狐に区別されて、前者は神使の地位を得たが、後者は人に憑いて苦しめる妖獣として忌まれることになった。

 

 なるほど。これまた面白い。日本の狐史にとって711年って大きな岐路だったんでしょうね。動物から神(使)になったわけですからね。

 

 また、私個人の疑問であったのですが、群馬県のお稲荷様を巡っている時に古墳にお稲荷様が祀られていることが多いと感じていました。

 

狐を神としてまつった祭場としての塚。狐塚のなかには実際に狐の棲家である穴が存在し、その入り口に供物を供えると狐がくわえていったと伝えられている例が多くみられ、狐に対する信仰が基礎になっていることが知られている。しかし、近世における京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰の流布とともに、狐塚には稲荷社がまつられるようになり、動物としての狐に対する信仰が薄れた。柳田国男は狐塚が本来の田の神の祭場であったと推測している。

 

 上記引用は、「狐塚」の説明です。なるほどねぇ。いや、本当に勉強になりました。柳田国男大先生っぱねえっすw なぜ農道にぽつんとお地蔵様みたいに稲荷神社があるのか、納得いきました。となると農村には、宮司さんや社務所もない小規模な稲荷神社や稲荷社が多いんでしょうかね。

 

 群馬県には稲荷神社や稲荷社、稲荷大明神と呼ばれるものは、約330くらいあります。群馬県は農業地帯が多いですが、米どころではないと思います。日本で有数の米どころにはお稲荷様が多いんですかね。先ほど約330のお稲荷様があると書きましたが、この数字が多いのか少ないのか全くわかりません。どなたか他の地域のお稲荷様を数えて頂けないですかねw

 

 お寺にある稲荷神社って必ずしもダキニ天じゃないじゃないですか。宗派によってかわると思うんですが、ダキニ天と稲荷神で別れるポイントって何ですかね。御存じの方がいらっしゃったら、是非ご教授頂きたいです。

 

 個人的には、もの凄く充実したGW最終日でしたw 間違っているところがあったらすみませんw