日本経済新聞・夕刊 『心の玉手箱』
1月12日付 本文
<新境地への模索 見守る>
1972年に「大駱駝艦」を結成した時に、看板を作った。今もけいこ場の入口に飾っている。
唐十郎の劇団「状況劇場」で役者をやっていた僕が、そこを辞め、かといって他の演劇をやる気にもなれずに暇を持て余していた時のことだ。「なんか、面白いことやりましょうよ」と、学生運動家や俳優志望の連中が集まってきた。じゃあ、けいこをしようと東京・阿佐ヶ谷の4畳半のアパートでドスンドスンとやると、食器が落ちた。安保闘争の末期、昼間から若い男が集まっているだけで、犯罪のアジトだと思われた時代である。怪しい者ではないことを示そうと、「火の用心」と声を出して回ったり、近所のお年寄りに「何か困ったことがあればお力になります」と御用聞きをしたりして、結局、余計に怪しまれた。
芝居をしていただけでなく、舞踏の創始者、土方巽のもとにもいた僕は、既存の演劇でもダンスでもない、新しいものを求めていた。芸術界全体が熱気に満ちていた。アクションペインティング、アンデパンダン、ハプニングなどと呼ばれた美術界の新しい動向に、僕も仲間も刺激を受けた。「大駱駝艦」は今でこそ舞踏の集団として知られるが、最初から舞踏をやると決めていたわけではない。
集団を作るなら屋号がいると、皆で飲みながら話しているうちに「駱駝」という言葉が出てきた。「艦」を付けたのは当時集団に「館」を付けるのがはやっていたから、ならばオヤジが海軍にいたから「艦」と。
名が決まると、学生運動と剣道をやっていた男が「看板がいるな」と言い出した。道場のつもりだったのかもしれない。そして筆で「大駱駝艦」と書いた。すると彫刻をやっていた別の男が、桜の木を調達してきてその文字を彫った。
最初に看板を掲げたのは大森山王。続いて江古田、中野、今の吉祥寺と本拠地が変わるたび、看板も連れてきた。不沈艦と言われた戦艦「長門」の乗員だったオヤジが守ってくれているのか、大駱駝艦は何とか今も沈まずに続いている。
看板の文字を書いてくれた剣道の男は60歳を前にして死んだ。親友だった。
・・・・つづく・・・・















