南朋さんのお父様、麿赤兒さん。
今年、1月11日~14日の4日間
日本経済新聞・夕刊の『こころの玉手箱』に連載されたコラムです。
1月11日付 本文
<両親の遺品、70歳前で手元に>
僕にはオヤジの記憶がない。第2次大戦中に、サイパンの南にあるテニアン島で戦死したからだ。海軍士官だった。母は実家に戻り、僕は父方の祖父母に育てられた。母は心が不安定になった、と祖母に聞いたが本当のことは分からない。
テニアン島の玉砕について書かれたものはよく読んだが、若いころは、父母のことを積極的に知ろうとはしなかった。どちらかといえば、忘れようとしていた。でも年をとるにつれ、自然に、いろいろなものが集まってくるようになった。
まず戦後50年にあたる1995年、テレビ番組の収録でテニアン島へ行った。いつか行きたいと思いつつ、初めてだった。廃墟となった日本軍司令部跡を訪れ、最後は玉砕の場とされる洞窟に入った。真っ暗でじめじめした空間に、軍靴の切れ端がある。滴り落ちる滴をためていたのであろう飯ごうが、今も水をためている。貝殻を集めた貝塚のようなものもあった。きっと、食料にしたのだろう。小さな貝殻には穴があけられていて、わずかな実を残さずすすった兵士たちの姿が想像される。
誰のものか分からない遺骨を見つけた僕は、“彼”と酒盛りを始めた。遺骨に日本酒をかけ、僕もしこたま飲んで「オヤジのこと、よろしくお願いします!」と叫んだりした。帰国の前、島の海岸で、貝殻を拾った。洞窟にあった貝殻が、頭にあったからだと思う。
後年、叔父から父の雅印を譲られた。父は趣味で絵を描いていて、印も作っていたのだという。「大森應山」と彫られている。そういえば幼いころ、押し入れに美術書がたくさんあって、よく潜り込んで読みふけった。ミケランジェロや、ダ・ヴィンチの名を覚えた。裸の彫刻の写真に、興奮したりもした。これらはやがて台風で流されてしまうのだが、あれはオヤジのものだったのだ。僕は明らかにこれらの美術書に影響を受けた。
さらに3年ほど前には、母の姉が、僕がけいこ場を構える吉祥寺のすぐそばで健在であることが分かった。母方の親族と対面したのも、父母の結婚当時の写真を見せてもらったのも初めてだった。僕が父に似ているという人も、母に似ているという人もいる。70歳近くになった自分の元に、ようやく届いた父母の遺品。奇妙な運命だが、今はそれを楽しんでいる。
続きはまた後日に![]()



















