今日、耳が聞こえなくなった。
世界から全ての音が消えた。
僕は、世界から隔絶されたと知った。
まるで昔のトーキーを見るみたいに不思議な世界だった。漫画のようにアニメのように、テレビの音声を消してスポーツ番組を見るときみたいに、絵だけが動いていく。
奇妙な世界だった。
そして、その不気味な世界は耳が聞こえない人にとって不親切であることを知った。
人とぶつかりそうになった。
目の前で金魚のように口をパクパクと動かしてから地面に唾を吐く。
歩道で自転車が凄まじい勢いで僕を追い越していく。
自動車が横断歩道にいる僕を撥ね損なって走り去っていった。
ちっとも気がつかなかった。
人は誰しも僕の耳が聞こえているものとして行動している。そして、こちらが譲歩するのが当然であると言わんばかりに動いている。
どうしてだろうか。
目が見えなくなるのと音が聞こえなくなるのはどちらがマシか。
誰かそんなことを言っていた気がする。
今となってその答えが分かる。
耳が聞こえないほうが寂しいと。
視覚に入ってくるその存在は、聴覚と言う感覚で補完されていると思っていた。だがそれは誤りだ。視覚という一つの感覚が突出しているわけではない。目で見えると言うのは非常に弱い感覚なんだ。だから、人間には聴覚が存在する。自分が世界と隔絶されているわけではない。そういう他者の存在を教えてくれるための器官なんだ。
僕は、自分の弱さを認めたくなかった。
自分がちっぽけで、ちょっとばかし耳が聞こえなくなったくらいで泣き言を言う人間だとは思いたくなかった。
世界からホッポリ出されて独りぼっちになってみても頑張れると思っていた。
だが、現実は違った。
とても残酷だった。
映像だけの世界は自分が本当に孤独であることを知らしめてくれる。
この現世と言う時空の中に固められたタペストリーのように、美しいけれども生命観を損失したものと認知させてくれている。
苦しくなった僕はやけっぱちになっていた。
もう、どうにでもなれ。そう思いながら同級生の彼女の家に向かった。
彼女の笑顔を見ることが出来るならば、それだけで自分自身の存在感を生命への渇望を取り戻すことが出来るのでは。そんなことを考えたのだ。
大学生の彼女は独り暮らしをしている。
スマホからメールをしてみたら家にいるとのことだった。
電話をかけられると困るから、車など持っていないくせにマナーモードにする。
細心の注意を払って電車に乗る。改札口を通過する。横断歩道を渡る。
聴覚を失うことが、こんなに厳しい世界であるとどうして僕は気づいたことがないのだろう。
そんなことを考えながら、ひたすら歩き続ける。
お洒落なアパートの二階、入り口のチャイムを押す。
勿論、何も音は聞こえない。
「……」
ドアが開かれ、彼女は部屋から出てきた。
とてもいい香りがした。
終わり
世界から全ての音が消えた。
僕は、世界から隔絶されたと知った。
まるで昔のトーキーを見るみたいに不思議な世界だった。漫画のようにアニメのように、テレビの音声を消してスポーツ番組を見るときみたいに、絵だけが動いていく。
奇妙な世界だった。
そして、その不気味な世界は耳が聞こえない人にとって不親切であることを知った。
人とぶつかりそうになった。
目の前で金魚のように口をパクパクと動かしてから地面に唾を吐く。
歩道で自転車が凄まじい勢いで僕を追い越していく。
自動車が横断歩道にいる僕を撥ね損なって走り去っていった。
ちっとも気がつかなかった。
人は誰しも僕の耳が聞こえているものとして行動している。そして、こちらが譲歩するのが当然であると言わんばかりに動いている。
どうしてだろうか。
目が見えなくなるのと音が聞こえなくなるのはどちらがマシか。
誰かそんなことを言っていた気がする。
今となってその答えが分かる。
耳が聞こえないほうが寂しいと。
視覚に入ってくるその存在は、聴覚と言う感覚で補完されていると思っていた。だがそれは誤りだ。視覚という一つの感覚が突出しているわけではない。目で見えると言うのは非常に弱い感覚なんだ。だから、人間には聴覚が存在する。自分が世界と隔絶されているわけではない。そういう他者の存在を教えてくれるための器官なんだ。
僕は、自分の弱さを認めたくなかった。
自分がちっぽけで、ちょっとばかし耳が聞こえなくなったくらいで泣き言を言う人間だとは思いたくなかった。
世界からホッポリ出されて独りぼっちになってみても頑張れると思っていた。
だが、現実は違った。
とても残酷だった。
映像だけの世界は自分が本当に孤独であることを知らしめてくれる。
この現世と言う時空の中に固められたタペストリーのように、美しいけれども生命観を損失したものと認知させてくれている。
苦しくなった僕はやけっぱちになっていた。
もう、どうにでもなれ。そう思いながら同級生の彼女の家に向かった。
彼女の笑顔を見ることが出来るならば、それだけで自分自身の存在感を生命への渇望を取り戻すことが出来るのでは。そんなことを考えたのだ。
大学生の彼女は独り暮らしをしている。
スマホからメールをしてみたら家にいるとのことだった。
電話をかけられると困るから、車など持っていないくせにマナーモードにする。
細心の注意を払って電車に乗る。改札口を通過する。横断歩道を渡る。
聴覚を失うことが、こんなに厳しい世界であるとどうして僕は気づいたことがないのだろう。
そんなことを考えながら、ひたすら歩き続ける。
お洒落なアパートの二階、入り口のチャイムを押す。
勿論、何も音は聞こえない。
「……」
ドアが開かれ、彼女は部屋から出てきた。
とてもいい香りがした。
終わり