これは、とある街にある小さな神社に祀られている龍神様のお話。ここには龍之介という神様と太郎という神様が住んでいる。二人は仙人や精霊や、もちろん神様たちが気軽に遊びに来られるようにお食事処を始めてみた。そんな小さな神社のたくさんの、おはなし。







蝉時雨が鎮守の杜に響き渡り、砂利道を焦がすような陽射しに打ち水を諦めてしまった午後。龍之介は洞穴の入り口に腰を下ろし陽炎のように揺らめくタバコの煙を眺めていた。すると若い娘に連れられてぐったりとした色黒の女の子がこちらに向かってやってきた。
「あのー、この子が時間を間違えてしまったようでこのままお日様に当たっていますと死んでしまいます。どうか日暮れまで休ませてはいただけませんでしょうか。」
娘はそう言うと日陰に身を寄せた。
「これはこれは、クマゼミのお嬢さん。奥は涼しいゆえ奥の座敷で少し休みなされ。この子は少しあわてんぼうなのかの?冷たい甘酒があるから飲んで涼みなされ。」
龍之介は奥の座敷に通すと女の子のためにい草の枕と敷物を用意して甘酒を2つ出してやった。
「私は朱と申します。この子はしずく。どうしたことかお日様がこんなに照らしているのに地面にフラフラと出てきてしまいました。出て来てすぐは驚いたのか話し通しだったのですがお日様が容赦なく照りつけるので夕方まで持つかどうかと心配しておりましたらカラスの六助さんがここを教えてくださいました。本当なら食べられてしまっても仕方がないのにこの近くまで送ってくださったのです。」
「六助はさっきまでここで川エビの佃煮やら蕎麦やらたくさんたべておったからのぉ。入り口まで送ってくれればいいのにの。あいつはあれで案外照れ屋じゃからの。それでは夕方まで少し眠りなさい。わしらはあっちにおるからの。」

洞穴の中でも座敷は使っていない時にはほの明るい光しか照らしておらず、岩に触れて冷やされた空気で満たされていた。

台所のそばのいつもの席で太郎とすごろくをしていた小沢の坊が小さな声で龍之介に尋ねてきた。
「あの子たちは精霊なの?その割には姿が儚げだけど、あんなのでずっと居られるかなぁ。」
小沢の坊は山の奥にある杉林の中を流れる小さな小さな沢の精霊だ。自分と同じ精霊ならあんなに影が薄くてはこの先大変なことになると心配になったのだ。
「うむ。あの子達は精霊にはならんの。多分ここに来るために仮の姿になったのだろう。朱はもうじき卵を産み命が燃え尽きる。しずくのことが気になり最後の力を振り絞ったのかのお。しずくはきっと訳も分からず変化しておるのだろう。夕方、表の松の木に留まらせてやれば一晩をかけて美しい姿になるだろうの。坊は見て行くかの?」
「おいらも居てもいいの?しずくが変化して行くの眺めてて、おこられないかなぁ」

そんな話をしている間しずくは甘酒を舐めながらゆっくりと殻を脱ぐ準備を始めていた。陽が傾き西の空が茜色から紫に、そして藍に変わり始めた頃には背中のむずがゆさがどうにもならなくなり松の幹に登ると大きな深呼吸を何度もして背中の筋に力を込めた。

空には美しい三日月が輝き、夜風がしずくの周りを優しく回り込むように吹いていた。
パチンと音がして背中が割れそこからゆっくりと時間をかけて、そろりそろりと大人のしずくが姿を現した。一度逆さまになり殻の外に出ると殻に捕まり翅を伸ばした。
息をのむほど美しい、まだ柔らかなその翅は薄緑の縁取りの透明なガラス細工のように月のかすかな光に呼応している。
坊は何度も何度も蝉の変化を見ていたけれど、今日は特別美しいと思った。しずくがまるで今壊れてしまいそうなほど儚くて胸が痛かった。
それから数時間みんなは黙ってしずくが色づくのを見守っていた。

明け方、龍之介の膝枕で居眠りをしていた坊にしずくが声かけた。
「おはよう。見守ってくれてありがとう。私ツクツクボウシなの。みなさんのおかげで大人になれました。坊がいてくれて本当に心強かったの。本当にありがとう。」
しずくは可愛らしい笑顔でお礼を言うと朱と二人で手をつなぎ明け始めた空に舞い上がった。
「さようなら。みなさんのことは忘れません。本当にありがとう。」
空の上からそんな声が聞こえたけれど、もう二人の姿は見えなくなっていた。

坊はまだ眠いのかあくびをしながら龍之介について中に入った。
「ねえ、龍之介さん朱やしずくは蝉だからすぐに死んでしまうのでしょう?蝉たちはかわいそうだなぁ。おいらたちの時間とは全然違う。人間よりもずっと短い。それでもあんな風に一瞬の美しさを見せてくれて、おいら嬉しかった。ずっとそばにいてくれたらいいのにって思っちゃったよ。」
坊は寂しそうにそう言うと目を拭い「あくびの涙だよ」と笑った。


蝉時雨がアブラゼミやクマゼミからツクツクボウシに変わりだして、街では地蔵盆がひらかれると子供達は宿題に追われ、夏も秋の気配に変わり始める。