静岡県磐田市
磐田駅付近の光明電鉄散策の後は、光明電鉄より前にあったとされる中泉軌道廃線跡を歩きました。
磐田駅前より西に向かいます・・・以前ネットで調べた「中泉軌道跡の碑」を目指します。
これが大正時代の中泉軌道↓だそうです。人力で走っています! (遠州中泉府八幡宮祭典HPより)
中泉軌道(なかいずみきどう)
明治30年(1897年)から明治40年(1907年)にかけて北遠地方の久根鉱山(佐久間)峰の沢鉱山(龍山)等が産出した鉱石を大量に迅速に輸送しようと帆掛舟で池田まで運び、そこから軌道上を人車(トロッコ)で中泉駅まで運ぼうとする案が浮上し、実行に移されたのが中泉軌道であった。
中泉軌道の建設にあたっては神谷惣吉、川島瀧蔵、青山源一ほか近隣の有力者が発起人となり、資本金5万円で株式会社を設立した。
中泉駅より池田村までの3哩(マイル)6分(8,726m)の間に軌道を敷設して、材木、肥料、旅客の輸送が目的で総工事費は65,000円であった。
そのルートは中泉駅を西進し、石原の郵便局東側を北進、西新町亀文宅北側を西進、現磐田化学工業前で、旧東海道に入り、道路南側の松並木と並行して進み、郷社の東側を北進、小立野を西進、県道の西側を北上し、池田橋の東端にある番小屋に至ルートである。
乗客数も大正2年(1913年)の12,000人をピークに年間1万人前後であったが、昭和5年(1930年)の廃止時には4,500人となり、車輌も24輌であった。
中泉軌道の建設にあたっては神谷惣吉、川島瀧蔵、青山源一ほか近隣の有力者が発起人となり、資本金5万円で株式会社を設立した。
中泉駅より池田村までの3哩(マイル)6分(8,726m)の間に軌道を敷設して、材木、肥料、旅客の輸送が目的で総工事費は65,000円であった。
そのルートは中泉駅を西進し、石原の郵便局東側を北進、西新町亀文宅北側を西進、現磐田化学工業前で、旧東海道に入り、道路南側の松並木と並行して進み、郷社の東側を北進、小立野を西進、県道の西側を北上し、池田橋の東端にある番小屋に至ルートである。
乗客数も大正2年(1913年)の12,000人をピークに年間1万人前後であったが、昭和5年(1930年)の廃止時には4,500人となり、車輌も24輌であった。
(磐田のお宝見聞帳より)
散策途中で立ち寄った中泉公民館の前に大正時代の地図が掲げてありしっかり中泉軌道が載ってます!!
黄色の点線で歩いた所を示してみました。 (中泉駅が現在の磐田駅)
先ずはビタミンロード栄町の商店街を通り抜けます。・・・何故にビタミンなのか不明でしたが・・・
先を進むとタイル貼りのレトロな建物が・・・
見事なタイル貼りです!窓の格子も変わってます! (拡大)
その筋向い、北へ曲がる角に中泉郵便局・・・裏手にチラッと何か観えます・・・
古い煉瓦の防火壁!?が残ってました。 (拡大)
北へ・・・そして心地よいカーブが・・・
この先の信号の交差点を右に曲がれば中泉公民館、真っ直ぐ行けば軌道跡・・・
中泉公民館の前を旧東海道が走ってます。
大正時代と江戸時代の地図が掲げられてます。 (拡大)
元の道に戻って碑のある所を・・・ここを曲がれば有りそうです・・・
夏の風物詩が・・・子供の頃よく採りに行きました・・・