静岡県掛川市
久延寺から旧国道1号線に戻りちょうど掛川市と島田市の境にドライブイン「小泉屋」が・・・
創業1751年の文字が光ります。
ここにも「子育飴」が売られてます。
ここの裏山に広重の版画に出てくる本物?の「夜泣き石」が・・・
右手の階段を上って行きます。
うっそうとした階段を上がり少し開けた所にありました。
これが本物?の小夜の中山の夜泣き石です。
石をアップで観たい恐れを知らない方は右下の✕をクリックしてみてください、弘法大師が指で書いたと云われる「南無阿弥陀仏」の文字がくっきりと・・・。
ここに書かれてる伝説は久延寺のものと話の流れは同じなんですが終わりがちょっと違い、久延寺では「母の仇とわかり名乗りを上げ、恨みを晴らした・・・」でしたが、ここでは侍(轟業右衛門)も昔を悔いて時を過ごし音八とも和解したお話になっています。
昔の人がいろいろと想像を巡らしたかと・・・
で、何故ここに本物?の「夜泣き石」があるかと・・・ここにも微妙に違う説があるようです。
石は明治元年、明治天皇上洛の通行の邪魔になるというので近くの久延寺が買い上げ、境内に移されました。明治13年、久延寺は浅草で開かれる勧業博覧会に石を見世物として出展します。ところが石が到着したときには、中に本物の赤子を入れた張り子の「夜泣き石」が大人気を博した後で、大儲けをねらった久延寺のもくろみは大失敗に終わってしまいました。輸送の運賃もなくなり、石は焼津の港に放置されていましたが、見かねた「小泉屋」が引き取りました。昭和に入り久延寺は石の所有権を主張して訴訟を起こしましたが敗訴に終わりました。(東海道通信より)
夜泣き石は、明治元年天皇が東幸するにあたって畏れ多いとして、沓掛の茶店に動かされました。それから久延寺境内に移した後、明治十四年に東京浅草で開かれた「勧業博覧会」に夜泣き石を出品することになりました。しかし、すでに東京ではハリボテの石の中に子供を入れて泣かせる偽物の夜泣き石が評判を得て稼いでおり、本物の夜泣き石は「少しも泣かない」といって不評に終わりました。焼津港まで運んだものの、お寺まで運ぶ費用が無く雨ざらしになっていました。それを中山新道からお寺まで運ぼうとしましたが、急坂のため運びきれずに峠の下の小泉屋の庭先に置くことになったそうです。
(お茶街道より)夜泣き石の左側には「銀座松坂屋」の石灯篭が奉納されてます。
ここにも不思議が・・・何故に銀座松坂屋が・・・
東京銀座松坂屋で昭和11年に開催された静岡県物産展に夜泣石が展示された事があるからのようです。
小泉屋の子育飴・・・水飴タイプ・・・これが昔から売られてる子育て飴、扇屋さんのもこのタイプです。
久延寺隣の扇屋さんは元祖と書かれてありましたが、小泉屋さんもかつては久延寺の西側にあったそうで、夜泣き石の赤ん坊はどちらの子育飴を食べて育ったのか謎です・・・
子育飴ソフトクリーム・・・食べてしまった後に子育飴入りと気付きました・・・で画像は無し
カミサンの一口頂いただけなんで味も解りませんでした・・・
子育飴・・・粒タイプ・・・子供の頃よく食べたカンロ飴に似てました
今昔いろいろと話が複雑に入り混ざっている不思議でした。
そして、ここからもう少し足を伸ばします・・・