第三百十三話 猫のお医者さん・季節の変わり目編(其三)
※ 前々回 第三百十一話 猫のお医者さん・季節の変わり目編(其一)
前回 第三百十二話 猫のお医者さん・季節の変わり目編(其二)
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あったかい。
とろんとした、あったかいスープの中にいるみたい。
柔らかい光を顔に感じて、あたしは少しだけ目を開けた。
大きなおおきな、人影がある。
「…ああ、気が付いた。よかった」
大きな手が、あたしの頭を撫でる。
誰だろう。あったかくて大きな手。
身体が重くて、動かすのも面倒だ。
だからあたしは、ただ寝そべって。
大きな手の感触を、楽しんでいた。
ああ、あたし、どうしたんだっけ。
どうして、寝そべってるんだっけ。
ああそうだ、あたしは猫になって。
雨の中を、ただひたすらに走って。
ねえ、あなた知ってるの、あたし。
あたし、猫になっちゃったのよう。
あたし。
…え?
そうだ、あたしったら。
がばりと起き上がる。目の前には大きな人の顔が。
「おっと、ごめん、ごめんよ、驚かせたかな」
大きな人、中年の男の人は、そう行ってあたしの頭から手を離した。
「まったく、私の家から走って逃げたのに、雨の中、また戻って来るなんてねえ」
あたしは手を、身体を見る。
白い毛に覆われた手と身体。
やっぱりあたしは、猫のまんまだ。
脱力して、あたしはまた、毛布の中に倒れ込んだ。
「ふうむ。全速力で私の足にぶつかったんだから、無理もない。どうだい、ミルクは飲めるかね」
男の人は、そう言って大きなボウルを持って来た。
そうして、その中に小指を入れて、
「ほうら」
あたしの鼻先に、指を近づけた。
ミルクの柔らかい匂い。じんわり鼻先に温かさが伝わる。
ぺろり、と、あたしは白い雫を舐めた。
「うまいかい」
途端に、おなかがぐうと鳴った。ひどくおなかが空いていたことに、あたしはようやく気付いたのだ。
あたしはよろよろと立ち上がり、大きなボウルに顔を突っ込んで、生ぬるいミルクをむさぼるように飲んだ。
きっとただのミルクなんだろう。でもあたしには、このうえなく美味しくて。
顔に飛沫がかかるのも構わずに、べちゃべちゃ、ごくごくと、飲んだ。
「ははは、そうか、うまいか」
男の人は笑って、あたしの背中を軽く撫でた。
御礼を言わなきゃね。
「にゃーおう」
「うん、うん、いいから飲みなさい」
あたしはすっかり安心しきって、すっかりミルクを飲み干した。
そうして、顔を見上げて男の人を見る。
ああ、目が大きくて、色の白い人。
グレーのツイードの三つ揃。
確かこの人、
「具合でも悪いんですかお嬢さん」
あたしをお嬢さんって、そう言った、あの人。
ねえ、そうでしょう。
「にゃーおう」
「さあ、すっかり飲んだら、ぐっすり寝るといい。まだ疲れているだろう」
男の人は、あたしの身体を大きな手で包んで、そうっと毛布の中に入れてくれた。
「じゃあ、おやすみ」
ああ、行っちゃうの。
グレーの後ろ姿を、ぼんやりと見送りながら、あたしはぼんやり考えていた。
いくつくらいの人かな。
あたしより十、いや二十くらい上かな。
そんな年上の男の人なんて、ちっとも興味なかったけれど。
やだ、馬鹿ねえあたし。
あたしは猫になっちゃったんじゃない。
もうそんなこと、どうでもいいのよ。
どうでも。
ミルクの匂いが、あたしの鼻にまとわりついて離れない。
目を閉じようとしたけれど、胸の奥底で、ちいさな何かが踊り出した。
あの人はどこ。
あの人。
「にゃーおう」
いつのまにか、部屋は真っ暗だ。
いや、暗いとこでひとりで寝るなんて。
「にゃーおう、にゃーおう」
ねえ、どこに行ったの。
どこに行ったのよう。
「にゃあーーおう」
あたしは毛布から這いだして、辺りを探し回った。
だだっ広い、しんしんと冷えてくる部屋の中を。
「にゃあああああおう」
「やれやれ、しょうがないなあ」
ひょい、と、あたしは抱き上げられた。
「じゃあ、一緒に寝るかね。ん?」
暗くてよく見えはしなかったけれど、あの人。
確かにあの人。
「にゃあおう」
「そうかい、じゃあおいで」
その人はあたしを、大きなベッドの枕の上に、そっと降ろした。
もぞもぞと布団に潜るその人の脇腹に、あたしは滑り込んだ。
「こらっ、そんなとこに入ったら、潰れちまうよ」
いいの大丈夫、ここがいいの。
「にゃうう」
あたしは、その人の脇腹にぴったりとくっついた。
フランネルのパジャマの感触。
この匂い。お父さんの匂いに似ている。でもちょっと違う。
「ゆっくりおやすみ、お嬢さん」
「なうう」
おやすみなさい。
あたしは、心からそう言って、フランネルのパジャマに顔を埋めた。
柔らかい感触に包まれて。
このうえなく安心しきって。
「ふるふる、ふるふる…」
喉が鳴って。
あたしは、ゆっくりと、眠りに落ちた。
* * * * *
「はっ」
目覚めは突然だった。
ここは何処。
ここは、あたしの部屋のベッドの上。
慌てて手を見る。合わせて十本の長い指。
頭をまさぐる。中途半端な長さのくせっ毛。
「あ、あたし、もしかして」
戻ったのか人間に。
「はあああ」
ばたり、と、あたしはベッドに倒れ込んだ。
夢だったのか。
全くなんて夢だろう。
猫の医者に診察されて、そして猫になっちゃって、そして…。
いったいぜんたい、何処からが夢で、何処からが現実なんだろう。
「ああ、あのひと」
ぼんやりと浮かんできたのは、あの男の人だ。
大きな手。生ぬるいミルク。フランネルのパジャマ。
「ゆっくりおやすみ、お嬢さん」
優しい声が、頭の中でやんわり響く。
「はあ…」
あんなにはっきり憶えているのに。
夢なんて。
あのひと。
「はああああ」
あたしは大きな溜息をついて、不意に壁の掛け時計を見た。
「うわああっ」
やばい遅刻だ。
あたしは猛然と服を着替え、髪もろくにとかさないまま、部屋を飛び出ていった。
* * * * *
「あれ、カンナちゃん、もう具合いいの」
そう聞かれるまで、あたしは忘れていた。
昨日まで、あんなに具合が悪かったのに。
今日はもう、きれいさっぱり治っている。
おかげで仕事ははかどった。
元気も出て来た。
昨日までのうっとおしい気分が、嘘のようだ。
「ねえカンナ、週末合コンセッティングしたからね」
そんな悪友の誘いを、あたしは快活に断った。
「えー、もうあの男なんか諦めてさー、もっといい男をさー」
「そうじゃないのよ、もうその人のことはいいの」
「え、そうなの」
「そう、そんなことより」
ふと、目の前を通過するグレーのスーツ姿。
あたしは思わず振り向いた。
ああ、違う、あのひとじゃない。
「…どしたの?」
「え、ううん、なんでもない」
訝る悪友の視線に構わず、あたしはまた、ぼんやりと思い出していた。
なんだか自分でもおかしい。夢の中の人のことを、こんなに考えてるなんて。
「さて、戻ろうか」
「うん」
「あ、今日はあたしが」
「え、ほんと、ラッキー」
ランチの支払いをしようと、鞄を開けると、
「…ん?」
見慣れない紙袋が、そこにあった。
「なんだろう」
白地に紺色の印刷。まるで木版画みたいな文字で、
「ネコマタ×診療所
マタタビ茶 十五包 一日一回服用ノ事」
って書いてある。
「え、えええええええええええええ」
思わず叫んだ。
「ちょ、ちょっとどうしたの」
悪友が覗き込む。あたしは慌てて袋をしまい込み、
「い、いやなんでもないの」
と誤魔化した。
ちょっとどういうこと。
夢じゃなかったの。
じゃあ。
あのひとは。
* * * * *
夕陽が坂道を照らしていた。
あたしは早足で、あの診療所へと向かっていた。
コンビニのはす向かいの路地。ちょっと奥まったところの、古い門。
「あ…」
建物はあった。
しかしそれは、倒壊寸前の廃屋だった。
昔むかし、診療所だったのかも知れない。
でも、門から玄関までは草がぼうぼうで、入り込むことすら出来なさそうだ。
「やっぱり、夢、なのかな」
石造りの門が、夕陽を受けてオレンジに輝いた。
あたしの手の中の、薬袋も。
「ふう」
息をついて、くるりと門に背を向けた。
その時、
「よくなりましたか、お嬢さん」
背中に心地よい声が、降って来た。
「はっ」
振り向いて見た、その先には、
「なう」
見事なグレーの毛皮の、紳士然とした、
目のとびきり大きな、一匹の、猫が。
「なうー」
妙に心地よい声で、あたしに啼いて。
長いしっぽを、華麗にくねらせて。
夕陽の影のなかへと、歩いていったのだ。
おしまい
いつも読んでくだすって、ありがとうございます
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ぶん:佳(Kei)/え:海野ことり 絵本『ねこっとび』
文:佳(Kei)/絵:大五郎 絵本『ねこのまち』