第二百九十七話 スリッパ | ねこバナ。

第二百九十七話 スリッパ

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彼にはお気に入りのスリッパがある。
父が使っていたスリッパだ。
日に焼けてくたびれて穴があいて、たぶん変な臭いのするスリッパ。それを彼は、後生大事に抱えて、今日も窓辺で昼寝をしている。
何度も捨てようと試みた。だが、

「ほらっ、そんなのもうよしなさい。新しいの買ってあげるからっ」
「びゃあーーーおう」
「いったい! あーもうまたキズが...」

激しく抵抗され、しまいにはひっかかれてしまう。
彼の名はゴン。十六歳になる雄猫だ。
そして、スリッパの元の持ち主である父は、もういない。

  *   *   *   *   *

三ヶ月前、父の葬儀が終わった日、私と母はぐったりして家に帰って来た。
やらなければいけないことは山ほどあるのに、身体が動かなかった。
母はぼんやりと、祭壇で微笑む父の遺影を眺めていた。そして私は、その母の背中を、またぼんやりと見ていた。
そこに、のっそりと、彼が現れた。

「びゃあう」
「ああ、ゴンやごめんね、ごはんがまだだったわね」

母はゆっくりと立ち上がって台所に向かったが、彼はそれについてゆこうとしない。かわりに、何かを引きずって、祭壇の前の座布団にどっしりと腰を落ち着けた。

「あら、なによ、お父さんに会いに来たの」

母は彼の横に座り直し、

「あんたは部屋に入れてもらえなかったからねえ、やっと会えたわねえ」

と言って彼の背中を撫でる。実際、父が病院から戻って来た時、近所のお年寄りは、猫を遺体のある部屋に入れるもんじゃないと、厳しく母に言い渡したのだった。

「どうしてだめなのかなあ」

私がそう呟くと、母は振り向かずに応えた。

「亡くなった人が、猫に取り憑かれて踊り出すんだってさ」
「へえ、そうなの」
「ふふ、お父さんなら嫌がらなかったでしょうけどね」
「ほんとね」

十六年前の雨の日、近所の公園でひとり凍えていた赤ん坊猫のゴンを背広に包んで帰って来たのは父だった。彼がおなかをこわした時も、ノラ猫とケンカして大怪我をした時も、寝ずの看病をしたのは父だった。そして、最後の入院の前日まで、ゴンを膝に抱いて、嬉しそうに過ごしていた。
ゴンに操られて踊るなら、父は本望と思うかもしれない。私はそんな、くだらないことを考えていた。

「あら、なにそれ」

母が、彼の持って来たものに気付いた。
灰色の地に、黒い猫のアップリケのある、形の崩れた、薄汚れたもの。

「…スリッパ」

私も近付いて確かめる。

「ああ、お父さんのスリッパじゃないの」
「ほんと。どうしてこんなもの持って来たの」

母に言われると、彼は何故か満足そうに眼を細め、座布団の上にごろりと横になったかと思うと、スリッパに顔を突っ込んでじゃれ始めた。

「やだもう、ゴンったらなにしてんの」
「そういえば、こうやって遊んでたわねえ」
「そうそう、お父さんがさ、スリッパでじゃれさせてさ、ぐりぐりぐり、って」
「どうしてスリッパがいいのかしら」
「臭いからじゃない」

私は思いつきでそう言ってみた。猫は足の臭いが好きだと、誰かに聞いたことがあったからだ。

「臭いから好きなの」

母は不思議そうに、スリッパで遊ぶ彼を見る。

「そうよ。ずいぶん長く使ってたじゃないの、そのスリッパ」
「それはそうだけど、お父さんのじゃなきゃじゃれなかったじゃないの」
「そりゃあ、あたしとお母さんは臭くないからよ。お父さんのだけ臭いのよ」
「まさか、そんなことないでしょ」
「いやいやぜったいそうでしょ」
「まあひどい」
「ふふふ」
「うふふふ」

祭壇の前で、私達は笑い、彼はごろごろと遊んでいた。

「ゴンや、よかったわねえ、お父さんの臭いがまだあって」
「びゃう」
「お父さん、がんばったのよ。褒めてあげてちょうだい」

母がぼそっそう言うと、彼は、

「びゃう」

いかにも満足そうに、そう鳴いたのだ。

  *   *   *   *   *

あれから三ヶ月。
彼はいっこうに父のスリッパを離そうとしない。しかも右足のだけ。
いい加減汚いシミが目立って来て、穴もだんだん大きくなってきたので、私はそろそろ捨ててしまおうと思っている。だがそのたびに、彼の激しい抵抗にあうのだ。彼はまるで全財産を奪われるかのような勢いで、私を叱責するのだ。
母は好きにさせておけば、と言うけれど、

「だってさあ、変な菌とかが繁殖してたら、ゴンの身体によくないんじゃないの」
「そうかしら」
「そうよ。もうおじいさんなんだから、気を遣ってあげないと」
「そうねえ、でもねえ、なんだか可哀想で」
「んもう、駄目よお母さんそんなんじゃ」

相変わらず母は呑気だ。しかし私は決意した。

「なんとしても、今朝のゴミに出しちゃうからね、あのスリッパ」
「そう、ああなんだか可哀想」
「大丈夫よ。次の日にはけろっと忘れてるわよ」

そうして私は、彼の隙を窺った。彼は両手でしっかりとスリッパを押さえ、時折窓の外を眺めている。
ちゅんちゅんちゅん、と、隣の家の軒先からスズメが飛び立った。彼はびくりとはね起き、その飛んで行った方向に向かって、

「うびゃっ」

飛び跳ねた。

「スキありっ」

すかさず私はスリッパを取り上げ、さっさとゴミ袋に突っ込む。

「ふう、やっと回収できたわ」
「大丈夫かしらねえ、ほんとに」
「もうお母さん、たかだかスリッパでそんなこと言わないの。じゃあ捨てて来るからね」

そう言ってはみたものの、実は私も、少しはうしろめたい気持ちが、心の隅っこにあったのだ。
だから、ゴミ袋を持って外に出たとき、

「びゃーあおう」

ゴンの鳴き声が、ちくりと胸の奥底を刺したのだった。

  *   *   *   *   *

「…へえ、スリッパですか」
「そうなの。それ以来ずっと、スリッパがないってびゃーびゃー文句言ってんの。おかしいでしょ」

数日後、私は会社帰りに、同じチームの後輩とふたりで、居酒屋で飲んでいた。
父のスリッパとゴンの話に、彼は妙に感心している。そして

「よっぽどお父さんが好きだったんですねえ」
「違うわよ。ただ臭いのが好きなの」
「そうなんですかねえ」
「そうよ」
「いやあ、何かあると思うなあ僕は」

なんて言って、うんうんとひとり納得している。

「何かって何なのよ」
「いや、それは判らないですけど」
「あのねえ、そんなことばっか言ってるから、プランに現実味がないとか言われんのよ」
「えーそこでそれ出しますか」
「猫ってのはそういう生き物なの。まったくさ、あたしにはそんなに懐かないくせにスリッパなんて」
「なんだ悔しいんだ」
「うるさいっ! ほらセンパイのグラスが空だぞ後輩」
「へいへい」

そんなことを言いながら面白がってビールを注ぐこの男、会社では若干浮き気味なのだが、どういうわけか私とウマが合う。すっかりおツボネの域に入った私にも、とぼけながら平気でものを言い、そしてこうやって酒に付き合う。考えてみれば不思議な男だ。

「だいたい君はだねえ」
「へいへい」
「へいへいじゃないっ」

そんなこんなで、こいつと飲むと、たいてい飲み過ぎる。
そしてこいつも、どうやら私と飲むと、いつも飲み過ぎるらしい。

「ぶはあ、うー飲んだ飲んだ」
「ったく、だらしないなあ。私を送ってくれるんじゃなかったのっ」
「はあ、すみません。いえいえ送りますよ送りますとも。うっぷ」
「ちょっと大丈夫?」
「いえ、あの、お、おうちに着いたら、水一杯もらえますか」
「やれやれ…」

そうして彼は、私の家に初めてあがり込むことに、なってしまった。

  *   *   *   *   *

「ただいまー」
「おかえりなさい。あら」
「お母さん、これ会社の後輩。ほらあがんなさいっ」
「ちょっとヨウコなんですか失礼なこと言って。すみませんねえ」
「いえっ、とんでもないです、おじゃましますっ」

彼は妙に緊張していた。すっかり酔いも覚めたようだった。それに、

「あのう、お線香、あげさしてもらっても、いいでしょうか」

などと奇特なことを言う。
仏壇の前に神妙に座った彼は、緊張した面持ちで手を合わせていた。そんな後ろ姿を見ていると、ふと懐かしい気分が私を包む。
これは何だろう。

「びゃう」

と、廊下のほうからゴンがやって来た。

「今日も大変だったのよう、スリッパ探してびゃーびゃー鳴いて」

母は苦笑する。やっぱり落ち着かないのだろうか。私は今更ながら、ゴンに申し訳なく思った。
するとゴンは、のそりのそりと後輩に近付き、ひくひくと鼻を動かし、

「え?」

くんくんと、彼の足を嗅いだ。そうして、

「うわっ」

どしんと彼の横に転がり、足を抱えて、かみついた。

「あいててて」
「こらっゴン! なにしてんのよう」
「びゃーう」

思わずのけぞって、尻餅をついたような格好の彼の足に、ゴンはまだしがみついている。

「やだもう、やめなさいってばゴン」

引き剥がそうとするが、ゴンの爪はしっかりと、彼のズボンに食い込んでいる。

「ふがふが、ふがふが」

ゴンはさらに、彼の足の指あたりに鼻をこすりつけ、靴下をべろべろ舐め始めた。

「う、うひゃっ、くくくくすぐったい」
「ちょっと、やだゴンったらあ」
「ふが、ふがふがふが」

まるで、父の足にすがってじゃれるように。

「あらまあ、ふふふ」

母がやけに嬉しそうに笑う。
私もつられて、

「あはははは」

笑った。

「ちょ、ちょっと笑ってないで、たた助けてくださいよう、う、うひゃひゃひゃ」

彼は笑って困って、そして笑っている。
ゴンは相変わらず、鼻を彼の足にこすりつけている。
宝物でも見つけたみたいだ。

「あはははははははは」

懐かしさと可笑しさと切なさが入り交じって、私の酔いは、笑い声とともに散っていった。
そして私は、この男のことばを、

「いやあ、何かあると思うなあ僕は」

思い出していたのだ。

「何かあるかなあ」
「え?」
「ううんなんでもないの。ほらゴン、いい加減にしなさい」
「びゃーう」

父はこの光景を見たら、なんと言うだろう。
きっと照れ笑いをして、そして。

「さあどうぞ、お茶がはいりましたよ」
「あっ、すみませんいただきますっ」
「うふふふふ」
「なによヨウコ、気持ち悪いわね」
「う、ううんべつに」
「びゃーーう」

このなんでもない夜が、いずれ大切なものになるような。
私には、そんな予感が、していたのだった。




おしまい







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