第百四十五話 アレルゲン(四十三歳 男 大学准教授) 下 | ねこバナ。

第百四十五話 アレルゲン(四十三歳 男 大学准教授) 下

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こんこん。

研究室のドアをノックする者がいる。

「どうぞ」

私が応えると、ゼミ生のタカハシとアサノが入って来た。

「先生、ジンボの荷物、あらかた片付きましたよ」
「そうか、御苦労さん」
「今ご両親の車に積み込みました。要らない物はこっちで処分することにしましたよ」
「すまないね」

彼等をねぎらおうと立ち上がったその時、

「ぐっ、げほっ、げほっ」

激しい咳が私を襲った。

「先生、風邪ですか?」
「いや...げほっ、違うんだ。アレルギーだよ」
「アレルギー? 花粉症ですか?」
「大したことはないよ。すぐ治る」

私は彼等の問いを少しはぐらかした。正直に話す気にはとてもなれなかった。

「あ、そういえば先生」
「何だね」
「ジンボの遺品の中に、たくさん研究ノートがありました。あいつ随分進めてたみたいですから、お役に立つならって、ご両親が」
「そうか、それは助かるよ」
「ここに、置いときますね」

アサノがノートの束を大机の上に置いた。
ばん、と音がして、埃がもうもうと立ちこめた。

「うわあ、すげえな」

アサノとタカハシが手で舞い上がった埃を払う。
途端に、私は。

「ぐあっ、げえほ、げほ、ぶぁくしゅっ、げえほおおお」

激しい発作に見舞われた。
喉が灼けるように痛い。鼻の奥を突き刺されるような苦しさだ。
目の周りも痒くなってきた。

「うわ先生、大丈夫ですか?」
「ハウスダストですかねえ」

呑気に二人が私を見ている。
私はハンカチで口と鼻を押さえ、ひいひいと息を継いだ。
ジンボのノートの表紙が見える。太いマジックで、几帳面に「研究1」と書いてある。
その文字の横には。
動物の足跡のようなものが。

「あ、あれは」

私は震えながらノートの表紙を指差した。

「え? ノートがどうかしましたか?」
「そ、その変な跡は」
「ああ、これですか。ジンボが餌をやっていた猫の足跡ですよ」
「そうそう。あいつ、実験棟の裏で猫を飼ってたんだよな」
「真っ黒なやつと、三毛のがいたな」
「あいつらも、寂しがってるだろうなあ」

何を呑気に喋ってるんだこいつらは。

「げほう、す、すまないが、そのノートは、きき君達が持っていてくれ」
「え、そうですか?」
「どうも、ぐふう、私は埃に弱いようだから」
「先生、デリケートなんですねえ」
「すまん、た、頼むから早く」
「はあ」

二人はノートを抱えて、研究室から出て行こうとした。

「ああそういえば」

タカハシが振り向いて言う。

「ご両親が挨拶に来たいと仰ってましたが、どうします?」

こんな状態で会える訳がない。
それに。

「すまんが、今日は体調が悪い。君らで相手してくれないか」
「そうですよね。じゃ失礼します」

二人は出ていった。
まだ部屋の中に、猫アレルゲンが充満しているような気がする。涙がぼろぼろと出てくるし、鼻水も酷い量だ。

「ひい、ひい、ひい」

呼吸が苦しくなる。私は研究室の窓を全開にし、廊下に面したドアも開け放した。
びゅう、と風が吹き抜けていく。

「はあ、はあ、はあ」

息が少し楽になってきた。と同時に怒りが湧いてきた。
何故だ。何故私がこんな苦しい目に遭わなければならないのだ。
ジンボか。あの男、やはり猫を飼っていたんだ。
ろくに洗濯もしそうにないあの男のことだから、そこらじゅうにアレルゲン物質を溜め込んでいたに違いない。

「くそう...ジンボの奴め...死んでまで私を苦しめるのか」

口に出してそう言って、私は怖ろしくなった。
駄目だ。今日はもう帰ろう。そう思って鞄を手にした時。
ふと大机を見ると、ジンボのノートが一冊、置き忘れられているのに気が付いた。

「まさか...」

恐る恐る近付いてみたが、表紙は汚れていない。ハンカチを口に当てて、そうっとページを捲ってみる。
ジンボの几帳面な字で、さまざまな仮説がみっちりと書かれている。私すら想像もしなかった新しい切り口だ。やはり研究者としての素質はピカ一だったようだ。
私は思わず見入ってしまった。そして、どす黒い考えが頭の中を支配した。

これは使える。

幸いこれは、アレルゲンがあまり付いていないらしい。咳も出ないしくしゃみも出ない。
私はそのノートを鞄に仕舞い込み、急いで研究室を出た。

  *   *   *   *   *

家に着くと、私はジンボのノートを鞄から取り出し、テーブルに置いた。
誰よりも早く、この仮説を実証して、成果を私のものとせねばならない。
そうすれば研究実績で、学部長に追いつける。いや追い越せるかもしれないのだ。
死んだ学生のものであろうが何であろうが、構うものか。
私は、ここで引き下がるわけにはいかないのだ。

ピンポーン

玄関でチャイムの音がした。

「はい」

ドアを開けずに返事をすると、

「先生、ジンボの親でございます」

と声が聞こえる。
まさか。

「ど、どうなさいました」
「先生にお礼を申し上げようと思ったのですが、もうお帰りになられたと聞きましたもので。失礼かとは思いましたが、ぜひ直接お礼を申し上げたくて、学生さんに住所を伺って参った次第です」

なんてことだ。あいつら余計な事を。
しかし。
開けない訳にはいくまい。

がちゃり。

ゆっくりと玄関のドアを開けた。
目の前には。

「このたびは、息子の事でお手数をおかけして、申し訳ありませんでした」

ジンボの父が。母が。

「先生には本当によくしていただいていたそうで」

鼻の奥に、鉛のような重いものが。

「あれも思い切り勉強が出来ると、喜んでおりましたのに」

憔悴しきった二人の顔が。

「本当に残念です」

肺が灼けるように熱い。

「もっと先生に」

その虚ろな目は何だ。

「色々と教えていただいて」

喉の周りがえぐり取られそうだ。

「もっともっと」

やめてくれ。

「勉強を」

苦しい。

「先生」

ぐああああ

「どうなすったんですか」

げほっ、げほっ、げほっ

「大丈夫ですか」

さっ、触らないでくれ

「先生?」

頼む、頼むから

「はあ」

帰ってください

「そうですか」
「それでは」

はあ、はあ、はあ

「息子が持っていたものですが」
「お役に立つなら」

なに

「ノートが他にもいっぱい」
「私らが持っていても、何のことやらさっぱり」

そ、そこに置くのか
そのノートには
猫の
足跡が

「お役に立てるかもしれません」

やめてくれ
頼むからもう帰って

「先生」
「ほらお父さん、先生はお疲れなのよ」
「そうだね」
「では、これで」

ちょ、ちょっと待って

「本当に」
「ありがとうございました」
「失礼いたします」

何故それを置いていくんだ
そのノートの束を
それは、それは

ばたむ。

「ぐはあああああああああああああ」

喉が
鼻が
目が
肺が

「げほお、ごほお、ぶひゃぐっ、げえええええ」

吐き出したのは
血だ
助けて

「ぜえ、ぜえ、ぜえええええ」

早く、早く家の奥へ
水、みず、みず
テーブルの上に
コップが

がたん。

「ぐわあああ」

いかん
転んでしまった
痛い
テーブルの

上から

何か

落ちてくる

あれは

ノート

ジンボの

文字が

顔が












「びゃーう」

  *   *   *   *   *

「全く、とんでもねえな最近は」
「本当だ。ジンボだけじゃなく先生まで」
「死因は、何だって?」
「急性心不全だってさ。要するに原因はよく判らないらしい」
「まったく...こうやって、死んだ先生の研究室のさ、荷物を整理するってのも、気分のいいものじゃねえしな」
「ああ」

「あれ?」
「どうした?」
「先生って、猫飼ってたっけ」
「さあ。聞いたことねえなあ」
「ほら。これって、猫の毛玉じゃね?」
「ああほんとだ。ジンボがよく身体にくっつけてたやつだな」

「びゃーう」

「お? なんだこんなとこにまで猫が来たぞ」
「あれジンボが世話してた黒猫だよなあ」
「三毛もいるぞ」
「おーい、お前らも手伝ってくれんのか」
「ちんまり座って、そんなとこにいても、餌は出てこねえぞ」
「さ、早いとこやっちまおうぜ」
「おう」

「にゃーう」
「びゃーう」

「ぶえっくしょい」
「風邪か?」
「いや...何か...」

「猫、まだ見てるよ...」

おしまい




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