第百四十四話 アレルゲン(四十三歳 男 大学准教授) 上
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「このたびは誠にご愁傷様で...」
私は深々と頭を下げた。
目の前には、私のゼミ生ジンボ・ススムの両親が、うなだれて立っている。
「先生には本当にお世話になりました...」
「こんなことになってしまって...」
ジンボの母親は、そう言って口元を押さえた。
「彼は優秀な学生でした...私も本当に残念です」
「先生にそう言っていただけて、息子は幸せです」
今度は父親が、唇を噛み締めて私を見た。
私はその眼を、正視出来なかった。
「荷物の整理などもありますので、近いうちに伺うことになると思いますが」
「先生、どうぞよろしくお願いいたします」
「は...では、これで...」
両親は私に頭を下げた。
私も一礼し、踵を返して葬儀場を後にした。
鼻の中にもぞもぞと刺激が広がり、喉の奥に刺々しい何かが広がっていった。私は怖ろしくなって振り返った。
遺影になったジンボは、こちらを睨みつけている。
喉の奥の刺激が強くなる。
「げっ、げほっ」
私は搾り出すような咳をして、足早にその場を立ち去った。
* * * * *
「先生、あいつの荷物、どうします」
車を運転しながら、ゼミ生のタカハシが私に訊いた。
私は彼の車の後部座席で、ぐったりと座りながら答えた。
「ああ...両親が取りに来ると言っていたから、それまでは放っておいていいだろう」
「あいつ、やたら荷物持ち込んでましたからねえ」
「そうだな...」
「...あんなやつでも、いなくなると寂しくなりますねえ...」
「...」
私はそれには答えずに、外をぼんやりと眺めた。
ジンボは極端に人付き合いが悪く、ゼミの飲み会に参加したことがないし、食事に誘っても付いて来たためしがない。だからゼミの他の学生にはむしろ嫌われていた。
「交通事故なんて...ひき逃げ犯人、早く捕まるといいですね」
「うむ...」
私は生返事をした。
遠くで雷鳴が聞こえた。
* * * * *
「ジンボ、どうしたこんな時間に」
「せ先生、たた確かめたいことが」
「何だね、手短に頼むよ」
「ぼぼぼ僕の、じじ実験結果、つつ使って論文かか書いているんでしょ」
「そうだよ。君も共同研究者として名前が載るんだ」
「さささっき見ましたよろろ論文。あれはだだ駄目です」
「駄目? どういうことだね」
「せせ先生は、データのつつ都合のいい処だだけ取り出してるじゃないですか。きっ基礎となる数値はあっああのとおりではなないはずです」
「落ち着きたまえ」
「せ先生! あれはデータのかっかか改竄です! しかもぼっ僕の実験結果なのに!」
「落ち着きなさいと言っている」
「...」
「なあジンボ、あれが雑誌に載れば、君は画期的な触媒技術の開発者として名を馳せることになるんだぞ。そして私も来年には教授だ。研究費も増える。君達ももっと実験に専念できる」
「でででもあれでは実験結果が」
「理論上不可能な数値ではない」
「じっ実験結果で証明出来なければすっすぐばれますよ」
「大丈夫だ。それなりの手は打ってある」
「えっ」
「心配するな。私は君達のためを思って」
ばん。
「せっせ先生! ぼぼぼ僕は反対です! そんなことをして、ぼぼぼ僕を巻き込んで反対出来ないようにすっするつもりでしょう」
「おいジンボ」
「僕はっ、そそそんなきっ汚いやり方でみみ認められたくありません!」
「何をする気だ」
「きき決まってますよ。ざっざざ雑誌の査読者や、せせ先生と対立するっき教授に告発するんですよ」
「ジンボ...お前、自分のやろうとしていることが判ってるのか?」
「わっわわ判ってますとも。僕がひひ引っ込み思案でつっ付き合いが薄いのをいいいことに、じじじ自分の地位を得るためだけに、僕をりっりり利用しようとしてるんでしょ」
「...」
「ぼっ僕は嫌ですからね。ぜっぜぜ絶対にっ」
「おい待て...待てよ」
「せせ先生のききき気が変わらないなら、僕はそうしますからっ」
「待てって! おい!」
「触らないでください!」
「...貴様...そんなことをしてみろ...。どうなるか思い知らせてやる」
「おっおお脅したって駄目です。僕は...まっ負けませんから」
ばたむ。
「...せっかく...せっかくここまで来て...ちくしょう...ああ鼻がむずむずずる...喉が...ぐふ、げほ、げほお...ぐぐ、あいつが此処に来るといつもそうだ...くそっ!」
ばん、ばん、ばん
「冗談じゃない...諦めてたまるか...あの野郎...」
* * * * *
「...生、先生、聞こえてます?」
タカハシの言葉が私を現実に引き戻した。
「ん? ああ、すまん、ちょっと考え事をしていた」
「...先生もショックなんですよね...判ります」
タカハシは私を思い遣るように言った。
そう、私はショックを受けている。
私が。
ジンボを殺してしまったことに。
* * * * *
「本当に大丈夫なんだろうな」
「まあ蛇の道は蛇って言いましてね。足が付くようなことはありやせん」
「ひき逃げの検挙率は九十パーセント以上だと言うぞ」
「あとの数パーセントが、はい、私らの仕事というわけでさ」
「なるほど...じゃあ、これが前金だ。残りは成功したら払う」
「へへへへ、毎度」
「毎度じゃあない。今回の仕事が終わればあんたらとは関係ないからな」
「おや先生、いいんですかい。先生の秘密は私らが握ってるんですぜ」
「なっ」
「ひひひ、まあご安心なさいな。先生が目出度く教授になった暁には、私らにもその分け前をいただきたいと思ってるって、まあこういうわけで」
「貴様...」
「おっとそんな顔なさいますな。大丈夫、先生が行き詰まるような取り立てはいたしませんし、厄介なこともありません。私ら、金蔓を切っちまうようなことはしねえんです」
「...仕方ない...じゃあ、頼んだぞ」
「はい、あの学生が、人気のないあのカーブにさしかかったら...」
「...私は帰る...」
「今後ともごひいきに...」
* * * * *
「先生、そろそろ付きますよ」
「ああ、すまないね」
タカハシは私の家の前で車を止めた。
ドアを開けようとして、私は発作的に、酷い咳に見舞われた。
「うぐっ、げほっ、げほっ、げほっ」
「先生、大丈夫ですか?」
タカハシが気遣わしげに私を見る。
私は必死に、喉の奥から込み上げる棘のようなものと闘った。すると今度は鼻の奥にもぞもぞと異物が入り込んだような感覚が襲う。
「びぇっくしょい、ぐふ、げほお」
「先生...花粉症じゃないですか」
「うむ...どうやらそうらしい...」
と言いかけて、私はふと思い出した。
この感覚は。
「タカハシ、お前、この車にジンボを乗せたことあるか?」
「俺がですか? まさか」
タカハシは呆れたような顔で言った。
「あいつ、誘ったって俺なんかに付いて来ませんよ。あいつを横に乗せてドライブなんて、天地がひっくり返ったって有り得ませんね」
「そうか...そうだよな...」
「先生、どうしたんですか?」
「む、いや何でもない。今日はすまなかったね、どうもありがとう」
私はそこで話を切った。タカハシは少し気味悪そうに、私に会釈して、車を走らせ去っていった。
そうなのだ。ジンボの両親に会った後、私は鼻と喉の異変を感じた。
あれは確かに、ジンボと会う度に私が襲われていた感覚なのだ。
それが今さっき、私を襲った。
私は身震いした。
「花粉症か...病院に行ってみるか」
そうだ、きっとそうに違いない。
私はそう自分に言い聞かせ、家の中へと入った。
* * * * *
「猫アレルギーですな」
「猫?」
私は拍子抜けした。
アレルギーの専門病院で医師が、私は猫アレルギーだと言ったのだ。
猫なぞ飼ったこともないし、近づけたこともない。なのに何故。
「猫のアレルギー物質というのはね、非常に微細で空気中に残りやすい。そしてカーテンなど布製の物に大量に付着すると、それをきれいに洗ってしまわない限りなくならない。近くに猫を飼っている人はいませんか? 服に大量に付着していれば、過敏な人ならその人が近付いただけで症状が出る場合もあるでしょうなあ」
「なるほど...」
私は腕組みをして、しばし考えた。
真っ先に頭に浮かんできたのは、あのジンボだ。
あの男、猫を飼っていたのか。あいつの両親に近付いたら同じような感覚がしたのは、そのせいか。
「とにかく、原因物質には近付かないのが一番です。薬だけではどうにもならないこともありますからな」
「はい...もう大丈夫だと思います」
「そうですか。それではお大事に」
薬を処方して貰って、私は病院を出た。
そうか猫アレルギーか...。ならば納得もいくというものだ。
そしてもう私には縁のないものだ。
気分がすっきりした私は、大きく背伸びをし、息を吸い込んだ。
冷たい空気が鼻腔から肺に満たされる。
「ふぐっ」
肺全体が棘で刺されるような、激痛を感じた。
鼻が収縮するように詰まっていく。
「ぐふぇ、げほっ、げほっ、げほおおお」
呼吸が苦しい。
突然どうしたんだ。
あの医者、猫アレルギーだと言ったじゃないか。
「びゃーう」
ふと横を見ると。
黒い猫が一匹。
私をじっと見ていた。
「びゃーう」
私はおののいて、激しく咳とくしゃみを繰り返しながら、走ってそこから逃げ去った。
つづく
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