邪馬台国論争 対馬国の大官と副②

 

 

【 序 】

前回記事「対馬国の官と副の名前」に重要な誤りがありました(修正済み)。以下は前回記事の追加記事となっています。

 

画像と記事は関係ありません

 

【 倭国(邪馬台国)とイエス・キリスト 】

倭国(邪馬台国)はイエス・キリストの磔刑と関係が深く、例えば倭王の名前などがそのことを示している。

  • Suisho(帥升) ⇒ Ihsous(ギリシャ語のイエス)

磔刑後蘇生を果たしたイエス・キリストはいったん洛陽に渡り、その後西暦57年に倭の奴国へ渡った。

  • 洛陽⇒落:「陽」をイエスの象徴と考えれば、「落+陽」はイエスの政治亡命の象徴となり得る
  • Rakuyo 741      546      91
  • Asylum 741      546      91(〔政治犯の〕亡命、庇護、避難所)
  • イエスの奴国への渡来の証しが、建武中元2年(西暦57年)に倭の奴国王が光武帝から賜った印綬(『漢委奴国王』の金印)である。

 

【 副の卑奴母離 】

対馬国の副「卑奴母離(Hinamoriひなもり)」の中には”inri”(イエスの磔刑の時に十字架に掲げられた銘板の文字)が含まれていることに着目する。

  • Hinamoriinri+ homa

Homaは「供物」「供物をささげること」「犠牲」「いけにえ」を意味するサンスクリット語で、その音訳が「護摩」だとされる。護摩はさとりを求めるための仏道修行で、煩悩を仏の智慧の火で焼き尽くす為の儀式だとされる。その”homa”のEnglishゲマトリアが”222”を示すことは重要かもしれない。

  • Homa 89         222      37

”222”は幾つかの解釈が可能だが、ここではヨハネの黙示録22:20の象徴だと考える。黙示録は全66巻ある聖書の中の66番目であり、22:20~22:21で聖書はその幕を下ろす。つまり黙示録22:20は全聖書の到達点だと考えていいように思う。

Surely I am coming quickly.

しかり、わたしはすぐに来る(ヨハネの黙示録22:20より抜粋)

以上から、対馬国の副「卑奴母離(ひなもり)」と言う名前は、「イエス・キリストの磔刑による贖罪(inri)、煩悩を仏の智慧の火で焼き尽くしさとりを求める仏道修行(護摩homa)、そしてその修行の結果得られるはずのエスの再臨(222「わたしはすぐに来る」)」の象徴となり得るように思う。

 

【 卑狗+卑奴母離 】

卑狗と卑奴母離を繋げると、その中に波紋と”inri”と”moha”が含まれていることが分かる。

  • Hiko+HinamoriHiko+ inri +moha⇒キリスト+インリ+

"Hiko"は前回の記事でキリストの象徴となり得ることを見ている。インリ(INRI)はイエス磔刑の時に十字架上に貼られた銘板に記された文字である。サンスクリット語の"Moha"は(ち)と訳され、仏教における煩悩のひとつで、無知・蒙昧を指す言葉である。以上から卑狗と卑奴母離の結合は、キリストの磔刑(Hiko+irni)が、人類の無知(煩悩)によって引き起こされたことを象徴している様に思える。

 

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【 結論 】

全体としては対馬国の官と副の名前(卑狗と卑奴母離)が象徴するところをまとめると、推測だが概ね次のようになるかと思う。

  • 人類の無知・蒙昧(Moha=癡)がイエスの磔刑(INRI)を引き起こした。
  • イエスの犠牲(贖罪)の上に立って、仏教的な修行(Dharmachakra=悟りの道への歩み、Homa=護摩)によって、悟り、阿摩羅識(本来的自己)の獲得へと至ることが出来る。
  • 悟り、阿摩羅識(本来的自己)の獲得によって呼び起こされるのが、イエスの再臨(黙示録22:20)である。この理解には人人唯識の考え方が必要かもしれない。

これらのことは大乗仏教の背後に、イエスの磔刑(贖罪)およびイエスの教えが潜んでいる可能性を示しているように思えます。