邪馬台国論争 韓と韓国

 

 

【 序 】

魏志倭人伝に次の一文があります。

從郡至倭 循海岸水行 韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

帯方郡から倭への行程が記されていますが、2つのルートが考えられます。朝鮮半島の西岸の中央辺りから水行で、①北へ向かうルートと②南へ向かうルートです。南へ向かうルートが定説になっていますので、以下では是を見てみます。

 

画像はwikipediaからお借りしました

 

【 水行で南へ向かうルート 】

<韓国はどこ?>

上掲の引用「魏志倭人伝」を箇条書きでまとめると次のようになるかと思います。

  • 郡(帯方郡:現在のソウル付近。ただし異説あり)から朝鮮半島の西岸に出る。
  • そこから海岸沿いに南に水行すると韓国に至る。
  • 韓国を通り過ぎて南や東に行くと其の(倭の)北岸である狗邪韓國に至る
  • 郡から狗邪韓國までは7000里余である。

ここでまず疑問に思うのが「韓国」はどこにあったの?ということです。韓国を経て、南や東へ行く狗邪韓國に着くわけですから、韓国の位置は極めて重要です。

魏の時代の朝鮮半島南部には3つの韓(馬韓、辰韓、弁韓)があったのですが、この3韓を合わせて「韓国」と呼ぶのだとすれば、韓国を通り過ぎるとそこは日本海で、日本海を乍南乍東すると着くのが狗邪韓國という話になってしまいます。行程の通過点である「韓国」が3韓ではあり得ず、本当に「韓国」と言う国が朝鮮半島南部の沿岸にあったのだろうか?という疑問が浮かびます。

 

追記2024.06.11済州島を韓国に比定すれば?という思いも浮かびますが、これだと韓国を通過して「乍南乍東」の記述が説明できません。済州島を通過して朝鮮半島の南沿岸を水行すると「乍北乍東」と記述されるはずです。また歴史的に見ても済州島が韓国と呼称されたとは考えにくいです。

 

画像と記事は関係ありません

 

<七千餘里>

郡から狗邪韓國までが七千餘里(通説では1里77~78mとされ540km程になります)と記されています。この七千餘里は直線距離なのか?行程距離なのか?の問題がありますが、直線距離だと帯方郡(現在のソウル付近と措定)から540kmだと日本列島に届いてしまい、狗邪韓國は日本にあったと言う話になってしまいます。直線距離ではなく行程距離だとすると、実際どのような航路を辿ったのかで結果は大きく異なることになり、かつ気候や潮などの自然環境にも左右され、また計測も困難であり、行程距離を適用することは現実的ではないように思えます。これらのことは狗邪韓國が朝鮮半島南部付近にはなかった可能性を示しているように思えます。

 

<短里と長里>

魏の時代の1里は約434mだとされ、三国志は概ねこの基準が適用されているとされます。しかし三国志の中の30巻目の中にある倭人伝に限っては短里と呼ばれる1里77~78mが使われているとするのが通説(短里説)となっていて、その根拠は周髀算経(中国最古の数学書の1つ)の1寸千里の法が適用されているからだとされます。そしてこの例外的な短里の適用に関して、撰者の陳寿も注釈者の裴松之も全く触れていません。「周髀算経の1寸千里の法」を魏志倭人伝に限って適用する必然性があったのだろうか?と言う気がします。個人的には魏志倭人伝に短里と言う概念を持ち込むためにはもっと明確な根拠が必要であり、現状では魏志倭人伝は、1里を約434mとして読むべきでは?と思っています。

 

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<韓と韓国>

魏志韓伝に「韓には馬韓、辰韓、弁韓の三種があり、桓霊(146年~189年)の末に、韓と(わい)が強盛となり、民が韓国に流入した」と記されています。

韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也

桓霊之末 彊盛郡縣不能制 民多流入韓國

「韓(馬韓、辰韓、弁韓)と濊が強盛となり、民がそこから韓国へ逃げ出した」とあるわけですから、魏の時代の韓国は別の国であり、かつこの引用文は朝鮮半島の騒乱を示しており、民は騒乱の朝鮮半島から別の場所に流出したと考えられますので、韓国は朝鮮半島でなく、別の場所にあった可能性が考えられます。

 

以上から魏志倭人伝の帯方郡から倭への行程記録は、朝鮮半島南部の西岸を南に下っていったのではなく、まず北へ向かい、次いで折り返して中国大陸の東側沿岸を南下して行った可能性がある様に思えます。この行程の考察を1里を434mとして行えば、韓国、狗邪韓國は朝鮮半島には存在しなかったと考えられます。