邪馬台国論争 「倭の奴国と日本」
【 魏志倭人伝の女王国の場所 】
魏志倭人伝には、倭は帶方郡の東南の大海之中にあって、郡から女王国までは12000里だと記されています。
倭人在帶方東南大海之中
自郡至女王國 萬二千餘里
魏の時代の1里は434mだとされますので、帯方郡の東南方向で5200km(434m×12000里)の距離に在るのは、現在だとパプアニューギニア付近と言うことになるかと思います。奴国も倭の中の1つの国ですから、奴国もやはりパプアニューギニア付近にあったと考えられます。
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【 隋書の奴国の場所 】
時代が下がり、隋書になると突然「俀国」が記述されるようになり、その国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在ると記されます。
俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
隋の時代の1里は533mだとされますので、百済、新羅の東南方向で1600km (533m×3000里)の距離にあるのは、現在だと小笠原諸島辺りと言うことになるかと思います。ここでの俀国は唐書の記述を鑑みれば、古の倭の奴国の事だと考えられます。
撮影 大仙公園 画像と記事は関係ありません
【 唐書の奴国の場所 】
更に時代が下がり、唐書になると「日本(倭国者)は古の倭の奴国である」と記されます。
(旧唐書)倭國者、古倭奴國也。
(新唐書)日本、古倭奴也。
これらのことから、小笠原諸島から古の倭の奴国(俀国)が日本列島に渡来し、「日本=倭国」になったと考えることが出来ます。なお私措定ですが、古の倭の奴国は「漢委奴国王」の金印と共にイエス・キリストの身柄を委ねられた国であり、このことは日本がイエス・キリストと縁の深い国であることを示しています。
なお旧唐書は古の倭の奴国が、新羅の東南の大海の中にあり、唐の都・長安(現在の西安)から14,000里離れた場所にあったことを記しています。
倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。
唐の時代は小尺での1里が443mですので、新羅の東南方向で、現在の西安から6200km(443m×14000里)の距離にあるのは、現在のパプアニューギニア付近であり、魏の時代の倭国、女王国の位置と矛盾しない結果を示しています。
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【 結論 】
全て推測になりますが、結論をまとめてみます。
- 倭の奴国の位置は時代と共に移動している。
- 魏の時代にはパプアニューギニア付近にあった事を魏志倭人伝、旧唐書が示している。
- 隋の時代には俀国という名前で小笠原諸島近辺にあった事を隋書が示している。
- 唐の時代には倭国=日本と言う名前で、現在の日本列島にあったことを旧唐書、新唐書が示している。
- 西暦57年(後漢の時代)にイエス・キリストが渡ったのが倭の奴国であり、その倭の奴国が唐の時代には日本になっているので、日本はイエス・キリストと関係の深い国だと言える。