漢委奴国王の金印 「なぜ志賀島へ埋めたのか?②」

 

 

【 宗教混合 】

前回の記事で志賀島を「しかのしま」と読んだとき、その中に「卑弥呼」と「ササン(ササン朝の名祖)」が潜んでいることを見ました。

  • Shika no Simahimiko + sasan ⇒ 卑弥呼+ササン

志賀島には「しかのしま」の他に、「しかしま」と言う読み方もありますので、このときのアナグラムを見ると釈迦が潜んでいることが分かります。

過去記事で「漢委奴国王の金印」を、イエス・キリストの象徴に措定していますので、この金印(イエス・キリストの象徴)を志賀島に埋めることの意味は、イエス・キリストの教えを仏教、ゾロアスター教、卑弥呼の中に埋め込んだ(融合させた)ことの象徴のように思えます(宗教混合のイメージが浮かびます)。また「釈迦+9(32)9」の中の「9(32)9」の意味は、「西の浄土(救世主不在の神仏の世界)東の浄土」の象徴であると過去記事で措定しています。

 

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【 倭の奴国と日本 】

過去記事で倭国の位置を、パプアニューギニア付近に措定していますので、金印を委ねられた「倭の奴国」もそこにあったと考えられます。ではその金印がなぜ日本の志賀島から出土したのか?という疑問が出て来ますが、奴国の位置が移動したと考えれば矛盾は生じません。この推理を裏付けるのが唐書です。

(旧唐書)倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。

(新唐書)日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居。

旧唐書には、「今(唐の時代)の倭国は、古(魏の時代)の倭の奴国であり、朝鮮半島の東南、京師(唐の都・現在の西安)から14000里(6200km:1里443mで計算)の距離にあった。」と記されています。そして新唐書では「古(魏の時代)の倭の奴国は、今(唐の時代)の日本である。」と記されています。この2つを合わせると、「古(魏の時代)には、西安から14000里の位置にあった倭の奴国が、唐の時代の倭国=日本である」と言うことになるかと思います。

 

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【 結論 】 

全て推測ですが、まとめると次のようになります。

  • 古(魏の時代)にパプアニューギニア付近にあった倭の奴国が、今(唐の時代)の倭国であり、日本である。
  • このことは、魏の時代にパプアニューギニア付近にあった倭の奴国が、唐の時代には日本列島に移動し、倭国=日本となった、事を意味する。