漢委奴国王の金印 「なぜ志賀島へ埋めたのか?」

 

 

【 序 】

あくまで私措定ですが過去記事で次のようなことを書いています。

  • 1784年に福岡県の志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印は、「漢は(金印を)奴国王に委ねる」と読める。そしてこの金印はそのつまみ(鈕)の形状からイエス・キリストの象徴となり得る。
  • この金印は磔刑後に復活を果たしたイエス・キリストがその後洛陽へ渡り、そして西暦57年に倭の奴国へその身柄を移したことの証しとなり得るものである。

以上を念頭に、以下でこの金印が発見された場所が、なぜ志賀島だったのか?を推理してみたいと思います。

 

撮影 神戸サンシャインワーフ 画像と記事は関係ありません

【 宗教混合 】

志賀島は通常「しかのしま」と読みます。変則的ですがヘボン式と訓令式の両方を使って、「Shika no Sima」とローマ字化し、そのアナグラムを見てみます。

ササンはササン朝(イランの王朝)の祖先でその名前の由来となった人物で、ゾロアスター教の高僧だったとされます。この島へ金印を埋めることは、卑弥呼(倭王)とササン(イランの王朝の祖先)の中に、イエスの教えを埋め込んだことの象徴となり得、キリスト教を含んだ宗教混合(シンクレティズム)をイメージさせるもののように思えます。

 

撮影 鶴見緑地 画像と記事は関係ありません

 

【 日本神話とイラン 】

秦氏が日本で創建したとされる稲荷(Inari)は「イランの出身者」の、日本神話に記述される奇稲田姫(くしなだひめ)は「クシャーナ朝」の、そしてスサノオに斬り殺されたオオゲツヒメは「大月氏」の象徴となり得ることを過去記事で見ています。

  • 稲荷(Inari)⇒Irani(イランの出身者)
  • 奇稲田(Kushinada)⇒ Aid + Kushan(クシャーナ朝:イラン系の王朝)
  • オオゲツ(ヒメ)⇒大月(氏)

なお魏は229年にクシャーナ朝の王・波調に「親魏大月氏王」の称号を、そして239年に倭王・卑弥呼に「親魏倭王」の称号を賜っています。これらに加え上で見たように志賀島のアナグラムが「卑弥呼+ササン」示すことは、日本神話とイランとの間に何らかの関係性が存在していることを暗示している様に思えます。