神武天皇とヨハネの黙示録

 

 

【 神武天皇とヨハネの黙示録 

神武天皇は、「紀元前666年に日向を出発なされ、6年の歳月を経て、奈良盆地一帯を征服し、紀元前660年に畝傍橿原宮にて初代天皇として即位された」とされます。そして「じんむ」をヘボン式でローマ字化し、それを単純に数値化すると「66」を示します。

これを聖書と関連付けたとき、66(660)は第66番目の聖書であるヨハネの黙示録の象徴となり得、かつ"666"は獣の数字でありこれもヨハネの黙示録の象徴となり得ます。

  • 神武(Jimmu)⇒10.9.13.13.21⇒66⇒66番目の聖書であるヨハネの黙示録
  • 神武東征への出発 BC666年⇒ヨハネの黙示録13章18節、獣の数字666
  • 即位までに要した年月 6年
  • 即位 BC660年⇒66番目の聖書であるヨハネの黙示録

以上から神武天皇は聖書的にはヨハネの黙示録、そして数字としては"6"と強く結び付いた天皇である可能性があります。

 

撮影 鶴見緑地 画像と記事は関係ありません

 

【 実際の年紀は? 】

但これらの年紀は「文献史学的・考古学的なものではないwikipedia」とされ、象徴的な意味であろうと思われます。では実際の年紀は?に関しては諸説あり明確ではないようです。その諸説の中の一つに正統竹内文書が説く、西暦57年説があります(一次ソースは不明ですが、検索すればネット記事、YouTube動画などで複数サイトで確認できます)。

あくまで過去記事の私措定ですが、磔刑の仮死状態から蘇生し光武帝の元に渡ったイエス・キリストが、洛陽から倭の奴国にねられたのが西暦57年です(それを証するのが後漢書に記される、西暦57年に光武帝から賜ったとされる印綬で、それが「漢奴国王」の金印だとされます)。

正統竹内文書の説を採れば、「神武天皇の即位年=イエス・キリストが倭の奴国へ渡った年=西暦57年」と言うことになります。

 

【 イエスの没と倭國王帥升の遣使 】

後漢書に倭國王帥升が西暦107年 (安帝の永初元年)に、謁見を願い出た。と言う記録があります。

安帝永初元年、倭國王帥升等、獻生口百六十人、願請見。

イエス・キリストには青森県の戸来村で、106歳で没したという伝承があります。イエス・キリストの生年を西暦元年だと考えれば、イエスの没年は西暦107年頃となり、倭王帥升の107年の朝貢と概ね一致する事になります。また、帥升(すいしょう)をヘボン式でローマ字化すると、そのアナグラムはギリシャ語の略語で「イエス」を表す"Ihsous"と一致します

  • SuishoIhsous(ギリシャ語のイエス)

なお"Ihsous"のギリシャ語ベータコードは"888"、すなわちイエスの数字を示します(こちらの計算機で確認できます)。

以上からイエス・キリスト106歳死亡説を採るとき、「イエス・キリストの没年=倭王帥升の朝貢年=西暦107年」となり、倭王帥升とイエス・キリストの関連性が考えられます。

 

撮影 鶴見緑地 画像と記事は関係ありません

 

【 神武天皇の3種ゲマトリア 】

神武天皇の諱(いみな)は「彦火火出見(ひこほほでみ)」です。3種ゲマトリアを見てみます。

3種ゲマトリアの上からは、神武天皇(彦火火出見)が、大天子ミカエルを象徴し得ることを示しています。そしてミカエルはヨハネの黙示録12章7節に登場します。ここでも神武天皇はヨハネの黙示録と結びついていると考えられます。

12:7さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが12:8勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった12:9この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。

 

日本はやっはり「神の国なのかな?」とぼんやりですが、思ったりします。以上全くの推理推測の記事である事をご了承ください。