邪馬台国論争 キリストの墓② 「イエス106歳没」

 

 

【 序 】

磔刑後に仮死状態から蘇生したイエスがその後に辿った軌跡は、「ゴルゴダの丘⇒中国の光武帝(洛陽)⇒クシャーナ朝⇒倭奴国(西暦57年)⇒青森県戸来村」ではなかったのだろうか?と言うのが過去記事での措定です。この措定だと、中国(後漢)とクシャーナ朝倭奴国、そして現在の日本が、磔刑後のイエス・キリストを軸にして繋がっていたと考えられます。

ネット上の諸情報(竹内文書?)を見ると、イエス・キリストは戸来村で、106歳で亡くなったとされています。これが史実かどうか?は別にして、なぜ106歳だったのか(なぜ106歳でなければならなかったのか)?を、以下で推理してみたいと思います。

 

撮影 京都 画像と記事は関係ありません

 

 

【 インマヌエルと第5代皇帝・殤帝 】

イエスの生年を通説通りに西暦元年だとすれば、戸来村でのイエスの没(106歳)は西暦106年頃だと考えられます。この106年を中心にすると、倭国と後漢で次の出来事が起こっていることが分かります。

以下で、和帝 劉肇がイエスの象徴となり得ることを見てみます(倭王帥升は過去記事で、すでにイエスの象徴となり得ることを見ています)。

 

1. 帝と言う名前は国(奴国)をイメージさせるものである。

2. 和帝の退位・崩御とイエスの没は、同じ(西暦106年)頃だと考えられる。

3. 和帝の即位年は「西暦88年(wikipedia)」だとされており、この即位年の”88”はイエスを象徴し得る数字である。また"888"がイエスの数字だとされるも、”88”がイエスを象徴しえるものであることを暗示している。

4.『イザヤ書』8:8でその誕生が預言されているインマヌエルは、キリスト教の誕生後「聖母マリアの処女懐胎のこと」であると解釈されるようになった人物で、「神はわれらとともに」の意味だとされる。そのインマヌエルの数値化(シンプルゲマトリア)が”88”を示す。インマヌエルの生誕(聖母マリアの処女懐胎)は、イエスと深く結びついている。

  • Immanuel⇒9.13.13.1.14.21.5.12⇒88

5. 和帝の没年の"106"と言う数字は、神の計画と結びつき(下記参照)、和帝の崩御と、その次の皇帝が神の計画によるものであることを暗示している。それは和帝の次の皇帝の生誕と、上で見たインマヌエルの生誕(聖母マリアの処女懐胎)を結びつけるものである(分かり難いので補足すると、和帝の次の皇帝は、インマヌエルだという意味です)。

  • Divine Plan(神の計画)      888  636  106 

 

撮影 西宮戎神社 画像と記事は関係ありません

 

【 結論 】

全て推測ですが、まとめると次のようになります。

  • 戸来村に於けるイエスの106歳での没は、後漢の第4代皇帝・和帝崩御(106年)の象徴である。
  • 和帝の即位年(88年)は次の皇帝がインマヌエルである事を暗示するものである。このことは和帝の次の皇帝(殤帝)が、幼少即位・夭折退位であったことが示している。
  • 創世記に対応させると「4代和帝がアベル」であり、「5代殤帝がインマヌエル」であり、「6代安帝がセツ」である。そして「6代安帝は4代和帝の生まれ変わり」であり、「セツはアベルの生まれ変わり」である。