邪馬台国論争 「漢委奴国王の金印 ④」

 

 

【 序 】

前回の記事で、志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印は、そのつまみ(鈕)の形状からイエス・キリスト(の教え)の象徴となり得ることを見ました。金印に彫られた文字、「奴国」を「(金印を)奴国ねる」と読んだとき、この金印は「漢の光武帝が奴国の王に、イエス・キリスト(の教え)を委ねた」ことの象徴となり得ます。この措定を前提に、イエスの磔刑に付いてみてみます。

 

撮影 三宮 画像と記事は関係ありません

 

【 イエスの磔刑と光武帝の治世 】

イエス・キリストの磔刑の日時に関しては西暦30年4月7日か33年4月3日のいずれかが、有力だとされます。この時の中国の皇帝を見ると光武帝(在位:建武元年6月22日 - 建武中元2年2月5日/西暦25年~西暦57年)である事が分かります。奴國王が印綬を賜った建武中元二年の皇帝も光武帝で、光武帝はその前年に天命を受けた天子の中でも功と徳がある者のみが執り行うことが出来るとされる、極めて重要な儀式である封禅の儀を執り行っています。

光武帝は56年の封禅の儀の翌年の4月3日2月5日に崩御しますので、光武帝は自らの余命を悟った上で封禅の儀を執り行い、そこに倭の奴国王を招聘したというのが、倭の奴国の朝貢の意味であった様に思えます。

 

画像と記事は関係ありません

 

【 結論 】

推測なりますが、まとめてみます。

  • イエス・キリストの磔刑の時(西暦30年または33年)、中国は光武帝の治世であった。
  • 光武帝は、建武中元2(西暦56)年に封禅の儀を執り行い、その翌年の2月5日に崩御する。封禅の儀は、自らの余命を悟った光武帝が執り行った、最後を飾る儀式であった様に思える。
  • 倭の奴国王の朝貢は、実質的にはこの光武帝の封禅の儀に参列するために、招聘されたものであった様に思える。
  • 封禅の儀の翌年である西暦57年に倭の奴国王は、光武帝から印綬を賜る。この印綬が志賀島から出土した「漢委奴国王」の金印であったとすれば、この金印は後漢の光武帝が奴国王に、イエス・キリスト(の教え)を委ねた事を象徴しうるものである。そしてその年の2月5日に光武帝は崩御する。

磔刑の3日後にイエスは、肉体を伴った姿で多くの人々の前に姿を現し、その後忽然と姿を消したとされます。肉体を持ったままのイエスが、天へお帰りになることは不可能であるように思えます。ではイエスは復活後、どこへ姿を隠されたのか?が疑問として残ります。

当時の中国は西域都護という、西域を統括する官職を西域の中央部に設置しており、イエスの磔刑はいち早く光武帝に伝達されたと考えられます。

 

イエスの復活はどのように成し遂げられたのか?復活を果たした後、イエスはどこへ行かれたのか?

これらに光武帝が介在していた可能世はあるのかもしれません。